関西クィア映画祭の感想の続きです。国内コンペ部門の続きを書きます。今回はさらっと。
- 「駆け抜けたら、海」
全体的に絵がとても綺麗で、アフタートークで監督がフォトデザイナー(?、すいません、ちょっと記憶が怪しいです)と知って納得しました。また、最後の走り抜けるシーンが本当に爽快で、これもアフタートークできっかけとなる体験があったという話を聞いて納得しました。銭湯という舞台をうまく使ったダンスシーンも素晴らしかったです。
伝えたい内容・描きたい絵・映像の尺が噛み合った作品だと感じました。 - 「ふたつの遺影」
国内コンペの中で、唯一トランスジェンダーを扱った作品。短い尺の中で、最低限の物語を伝えるための要所を抑えた作りは、CM制作者ならではだと感じました。一方、アフタートークで、当事者の起用を問われた際に「演技力の関係で…」と言っていたのは、どうかなと思います。大衆が求める「分かりやすい」マイノリティ像に引き寄せるという行為自体、暴力的なものです。(もっとも、これは分かりやすくて理解しやすいものを消費することで成り立つ資本化された社会の問題が背後にあるのでしょうが。) - 「冷めたコーヒーとアイスコーヒー」
主演の演技に引き込まれる作品。主演は監督でもあるのですが、自分の撮り方が上手いと思いました。作品に感じる不思議な安心感は、自分を客体として撮ったことに起因するのかもしれません。女性キャラが担っていた負担が軽視されるストーリー構成は少し気になりました。 - 「あなたが言うなら」
不穏な脚本は面白かったですが、物語の構造には問題があると思いました。
マイノリティが物語に登場する時、話を展開させるためのギミックとして用いられることがしばしばあります。異性愛のラブロマンスだと「なぜ異性愛?」と問われることはないし、日本人が出てくる作品に「なぜ日本人?」と問われることもないわけですが、同性愛を登場させようとすると「なぜそこに」と問われて、理由付けが必要とされるわけです。マジョリティの登場には必然性が問われないのに、マイノリティを物語に登場させようとすると途端に必然性が問われ、物語を展開させるギミックとして扱われてしまう。これはきわめて差別的な状況です。アフタートークで、監督がその指摘を受け止めておられるようでよかったです。
そういえば、「駆け抜けたら、海」のアフタートークで、この作品の脚本を人に見せた時に「なぜ同性愛なの?」と聞かれて悩んだという話を監督がしていましたね。この問いかけも、こうした非対称性を表していると思います。
当たり前に、日常のなかにマイノリティが登場する作品が増えてほしいものです。
(棋客)