達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

第16回関西クィア映画祭(2)

 前回の続きです。

kansai-qff.org

 今回は、国内コンペ作品の一つの「私の愛を疑うな」について、感想を書いていこうと思います。

 国内作品コンペティション:第16回 関西クィア映画祭 2023 [KQFF2023]

 私もこの作品に投票しました。個人的には、昨年のクィア映画祭で観た「サラダは人生」と比較できるポイントがいくつかあったと思います。両作品とも、女性ジェンダーの主人公二人が、シェアハウスを拠点に不条理な社会を生き抜いていく話です。

 どちらも同性婚がゴールにされる運動が主流になるいま、その背後で蔑ろにされている、人と人との多様な関係性の在り方を示す作品であると思います。そして、今の社会が押し付けてくるジェンダー的な呪いへの共闘を示す作品でもあります。

 「私の愛を疑うな」の監督は、アフタートークで、この作品が「自分のための物語だ」と感じてもらえると嬉しいということを言っていましたが、似た生活を送っている私にとっては、まさに自分のための物語だと感じました。社会の中で交わされる言葉やどうしようもない広告にダメージを受け、怒りを覚え、でも声を上げて抵抗することを他の人に任せてしまうこともある。そうした中で、信頼できる友達との生活が育まれてゆく。その生活と闘いをしっかり描いた作品だと思いました。「サラダは人生」と比べても、こうした熱量がより力強く溢れた作品だと思います。

 

 一方で、「私の愛を疑うな」には、個人的にはやや危うさを感じるシーンもありました。主人公・先輩女性・後輩男性の三人の会食シーン。先輩氏が「出ていって」と言って、後輩氏は一人店から出て、先輩氏が主人公に「私たちこういう関係だから」というシーン(その少し前のシーンで、後輩氏は主人公に嫌なことを言っているのですが、先輩氏はその話を聞いていないので、そのせいで追い出されたわけではないと思います)。この後、店から出て、主人公が先輩氏に「いま、楽しい?」と聞いて、先輩氏は「楽しい」と答えます。

 このシーンの意図は、人の関係性は人それぞれで、一見理解しがたいものであっても、当人同士が納得して関係を築いているのであれば、それは当たり前に尊重されるべきだ、ということかなと思いました(映画全体のテーマから考えても)。

 もちろんこの意図自体には賛同しますが、この描き方は気になります。ここでの「楽しい?」という問いかけは、先輩氏だけではなく、その場から排除された(つまり一般的に考えれば暴力的な振る舞いをされた側である)後輩氏の方にも問われるべきだと思うからです。先輩氏が「楽しい」からあのような振る舞いをしてよいというだけになってしまうと、いわゆる「有害な男性性」を先輩氏が発揮しているだけなのでは?と思ってしまいます。ここは、後輩氏の「楽しい」という言葉をもって、納得させてほしいと思いました。

 これに対して、「サラダは人生」では、「バディ」としての主人公二人の連帯が示された後に、そこにもう一人、彼氏のいる男性キャラが登場し、三人で「バディ」と繋いだ手を掲げながらラストを迎えます。今の社会で規範とされる、女/男の恋愛的な一対一の結びつきに対する、オルタナティブな関係性の示し方としては、この「サラダは人生」の方が個人的には好みだなと思ったりします。

 

 ラストシーン。「私の愛を疑うな」では、主人公二人の関係性を「人生共同体」という言葉で改めて名付けます。ちなみに「サラダは人生」では、「一緒に戦ってくれる人」や「バディ」と言及されてます。新しい名付けを与えるという行為は、ともすれば名前を奪われ、ラベルを貼られ、「透明にされる」世の中に対する抵抗を示していると思います。実際にどのような言葉だとしっくりくるのかというのは人それぞれだし、関係性によって変わってくるでしょうが、いいラストだなと思いました。

 

 「サラダは人生」は監督が動画を全編公開しています。ぜひ観てみてください。

サラダは人生 | Portfoliomo

 

 どちらの作品も好きな作品です。どちらの監督も、今後のご活躍を期待しています。

(棋客)