達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

文フリで買った本①―『砂時計』第四号

 文フリで買ってきた『砂時計』第四号を読んだので、感想を書いていきます。発行者は「北十 | 文芸同人 北十 | Hokkaido」さんです。

 冒頭にあるのが『片袖の魚』の監督の東海林毅さんと、「北十」の音無早矢さんの対談記事です。『片袖の魚』は、以前関西クィア映画祭で観たことがあります(関西クィア映画祭に行ってきました - 達而録)。この作品は、トランスジェンダー女性の日常を描いたもので、当事者による俳優オーディションを経て撮影されたものでもあります。

 この記事から、「ドラマティックに描かない」の章を少しご紹介します。以下、p.14-15の部分引用です。

(東海林毅さん)やはりマイノリティを映画の中で描こうとするとどうしても、「ドラマティックに描きたがる、ドラマ性を持たせたがる」というよくないところがあると思うんです。エンターテインメントとしては盛り上がると思うんですけど、当事者の表象を使って過剰にドラマ性を持たせるのは、当事者に失礼なことだと思います。そう感じるのは、僕がマイノリティ側の人間だからとうのもあるかもしれないですけど。悲劇的であったり、喜劇的であったり、そうそうそんな生活をしている人はいませんし、「我々は普通に生活しているだけなんだけどな」という思いが強かったです。だからこそ特にトランスジェンダーを劇中で扱うにあたって気をつけなければいけないし、普段の生活・日常を描かなければ意味がないなと思っていました。……

(音無早矢さん)……マイノリティの当事者を描く作品は、「マイノリティの中の勇者」が描かれるか、「かわいそうなマイノリティ」のような形で「感動ポルノ」的に描かれていると思うんです。

 以前の記事で、マイノリティが作品に登場する時、その作品を展開させるためのギミックとして使われてしまう、という話をしました(第16回関西クィア映画祭(3) - 達而録)。たとえば、異性愛者であれば「そのキャラクターが異性愛者である必然性」など求められないのに、同性愛者だと途端にそれが求められてしまうわけです。これはセクシュアリティに限らず、日本を舞台にした作品で外国人が登場する場合などを考えても同じ話です。

 こういう見方は映画に限らず、さまざまなところに顔を出します。たとえば、第67回江戸川乱歩賞受賞作の桃野雑派『老虎残夢』について、月村了衛は選評でこんなことを書いています。

主人公カップルが同性であることに必然性をまったく見出せませんでした。同性であることは問題ではありませんが、本格ミステリとして応募する以上は、全体を構成する要素の一つ一つにもっと慎重であるべきだと思います。(http://www.mystery.or.jp/prize/detail/20671

 こんな選評が幅を利かせてしまう中で、マイノリティを主人公にしながら、いかに当たり前に日常を送る姿を丁寧に描くか、という課題に向き合った作品が『片袖の魚』であったと言えるでしょう。対談記事でも触れられていますが、服を選ぶシーン、職場で働くシーンなど、トランスジェンダーが社会で日常を送る中で、遭遇するマイクロアグレッション、支えてくれる人の存在などを丁寧に描いた作品だと思います。

 近年の作品におけるクィアの描写のされ方については、この記事も参考にしてください。→映画『怪物』を巡って——「普遍的な物語」を欲するみんなたちへ/坪井里緒

 調べていると、こんな記事も見つけました。メモしておきます→物語に〈同性愛者〉が出てくる《必然性》なんか無くていい|コミック無職

 

 さて、そもそも『砂時計』第四号のテーマは、「姿を変える詩歌―メディアミックスの可能性」です。『片袖の魚』自体、文月悠光さんの詩「片袖の魚」が原案となって作られた作品であり、本誌はこのようにさまざまなメディアの枠を飛び越えて再解釈・再構築される営為に焦点が当てられています。

 たとえば「メディアミックスの試行」では、作家Aが作家Bの小説を詩に、作家Bが作家Aの詩を小説に、という試みがなされています。また評論「佐藤春夫メディアリテラシー」(かくた)では、与謝蕪村の 「春風馬堤曲」と、それを無声映画のシナリオとして翻案した佐藤春夫「春風馬堤図譜」が取り上げられています。与謝蕪村の 「春風馬堤曲」自体が、発句・漢詩・散文が複合したクロスメディアの作品であり、それぞれの特性がどう発揮されているかを考察する文章が面白かったです。

(棋客)