達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

『交差するパレスチナ: 新たな連帯のために』を読んで(1)

 『交差するパレスチナ: 新たな連帯のために』(在日本韓国YMCA編集、新教出版社、2023)を読みました。在日本韓国YMCAは、日本・韓国・在日朝鮮人を架橋する運動体であり、2006年からはパレスチナとの交流事業を継続してきました。

 現在、イスラエルによるパレスチナ占領が続いていますが、このことと、フェミニズム・黒人運動・クィア理論・在日朝鮮人日本赤軍・解放神学といったテーマの交差性を論じる論考が掲載されています。いまパレスチナで起こっている出来事が、まさしく「わがこと」であることを教えてくれる本であると言えます。

 今回は、第5章「パレスチナの歴史的鏡像としての在日朝鮮人――私が私たちになるために」(中村一成)を取り上げ、その内容を簡単にまとめておきます。ちなみに、中村一成さんの本は、以前『ウトロ ここで生き、ここで死ぬ』を紹介したことがあります→読書の秋に読んだ本 - 達而録

 


 

 「アジア大陸の両端に二つの不条理がある」という言葉がある。二つの不条理とは、イスラエルと日本のこと。イスラエルと日本の状況は相似形にある。つまり、

  1. 歴史的責任を認めず、
  2. 共に生きるべき隣人を拒み、
  3. 「西洋」の一員であろうと欲する

 という状況で、この二つの国家は共通している。そもそも「国民国家」というシステム自体が、常に外部を作り出すものである。「国籍」は、恣意的に与えられ、また奪われるものであるにも拘わらず、その国籍によって人の扱いを変えるという、きわめて排他的なシステムを原理として持っている。

 イスラエルにおいて、パレスチナ人は「殺しても、追放しても良い存在」に追いやられてきた。アラブ世界にありながら、アラブ人を否定し、他者なきユダヤ人国家を希求する、レイシズムそのものを体現する国家となっている。1947年から、計画的な虐殺が繰り返され、その試みはいよいよ完遂に近づきつつある。

 そして日本においては、朝鮮人在日朝鮮人(そしてアイヌ・沖縄人)が排除の対象となった。1945年12月に参政権が停止された。1947年5月に外国人登録令によって在日朝鮮人は「みなし外国人」となった。1948年1月、在日朝鮮人の自主学校を否定する通達が出され、武装警官によって自主学校が閉鎖された。1951年11月に出入国管理令が出され、1952年4月には在日朝鮮人・台湾人は無権利外国人となった。1953年には国家公務員から在日朝鮮人が排除された。これらの政策の背後には、戦前の日本による朝鮮半島の植民地支配という加害に、「仕返しされるのではないか」という恐怖があった。こうした初期の政策によって、レイシズム国家の枠組みが完成し、それ以後部分的に緩和された規定はあるものの、社会に染みついた意識は変わっていない。

 そして近年には、慰安婦の教科書記載の排除、教育基本法への「愛国心」の導入、高校無償化制度からの朝鮮高級学校の完全排除、ヘイトデモの常態化など、ますます攻撃的になり、いまやヘイトクライムが横行する時代になった。

 2018年7月、イスラエルは自国を「ユダヤ人のみが主権を持つ」国であると基本法に定めた。この内容は、近年の自民党改憲草案と重なる面がある。

 中村は、パレスチナ訪問の体験として、このような抑圧と暴力を受け続けるパレスチナ社会の中で、暴力が日常的なものとなり、生活に浸透してゆくさまも描く。イスラエルによる家・土地・日常・命の収奪が繰り返されるなかで、パレスチナの子供たちは、世界への信頼感覚と、生きていくための展望を失いつつある。「自分は自分であることを理由に攻撃されない」という日本のマジョリティには当たり前の前提が、自明ではない場所になってしまっている。その結果、暴力が唯一の手段になりつつある。

 


 

 さて、本書が発行されたのち、ハマスの攻撃がセンセーショナルに取り上げられましたが、以上のような背景は押さえておかなければなりません。最近、フランスで行われたジュディス・バトラーの講演では、バトラーは、ハマスの攻撃はテロとしてとらえるべきではなく、「武装したレジスタンス」ととらえる方が歴史的には正しいだろう、と述べています。

※参考:JUDITH BUTLER - CONTRE L’ANTISÉMITISME ET POUR LA PAIX RÉVOLUTIONNAIRE EN PALESTINE - YouTubehttps://twitter.com/inlaforet/status/1764926636628025697

 ただハマスを悪魔化して批判しても、問題の根幹には辿り着きません。そこに至る文脈を理解すること、そしてその状況が全く他人事ではないこと、同じ構造の暴力を私自身が振るっていること、その責任をどう果たすか考えること、これを続けていくしかありません。

 

 次回、本書からまた別の論考を取り上げて紹介します。

(棋客)