前回に引き続き、関西クィア映画祭で観た映画「ノー・オーディナリー・マン」について書いていきます。今日は、作中で明示されているテーマについて、順を追って見ていくことにします。
前回、この映画の主要な構成パートの一つに「トランスジェンダー(十名ほど)へのインタビュー」があると述べましたが、このパートは本作全体のナレーションのような役割を果たしており、このインタビューで語られたテーマを軸に、他の映像が組み合わされながら映画自体が進行していきます。
この映画が優れているのは、インタビューの中でたくさんのテーマが提示されるものの、それぞれの話が有機的に繋がっていて、順番に分かりやすく消化できることです。かといって、論理立った筋書きで進みすぎて退屈するというわけでもありません(説明的すぎてつまらない授業を想像してください)。テーマや構成はもちろんですが、こうした話の組み立て方の塩梅も、本作の絶妙な点の一つだと思います。
以下、順不同で、この映画で取り上げられているテーマについて、内容をメモしつつ感想を書いていきます。
トランスジェンダーとメディア
ビリーは、死後「実は女性だった」「周囲を騙してきた」「50年以上性別を偽った」といった報道のされ方をしました。そして、トランスジェンダーに対するこうした報道の仕方は、ずっと繰り返されてきたものであると指摘されています。
マジョリティーが理解できないものに出会ったとき、勝手に物語を作り、理解しやすいものに変えて受容してしまいます。その時、エンターテインメントとしての消費の対象になることもしばしばです。
その結果、「トランスは嘘つき」だという理解が繰り返し再生産され、トランスへの暴力が正当化されていきます。ビリーの物語は、まさにこうした経過を辿ったものと見ることができます。
トランスとしてどのような死を迎えるのか、という問題もこの作品の主要なテーマです。ビリーは、胸を小さく見せるためのサポーター(本人は肋骨の怪我のためと言っていたそうです)など、見つかると嫌なものは死ぬ前に片付けたのかもしれない、という話が紹介されていました。しかし、ビリーの死後の扱われ方は、おそらくビリー自身の望んだようなものではありませんでした。このことについて、あるトランスジェンダーは、人は死の瞬間に「自分で自分の人生は決められない」ということを悟るのではないか、と述べていました。
また、京都会場のトークショーでは、トランスの死後の扱われ方に関連して、死後に「戒名を付けられる」例を吉野氏が挙げておられました。戒名は、男性・女性で分けられることが多く、死後に自分の望んでいない名前を付けられる可能性は大いにあります。
これは、歴史研究の場面においても、過去の人の代名詞をどう扱うか、という問題に関わってきます。その人の性自認が分からない場合に、性を決めつける代名詞を使うと、その人の尊厳を傷つけ得るわけです。歴史研究に従事する者として、この点には気をつけねばならないと感じました。
トランス差別と黒人差別
白人のトランスジェンダーの語りの中で、自分が受けてきた治療を、有色人種は受けにくい傾向にあることが指摘されています。白人が享受してきた特権を他の人種は受けられないことがあるという話です*1。性差別に反対する運動自体が、資本を持つ人々(主に白人)を中心に発展してきた面があり、するとそこに黒人差別が内包されやすいという現状があります*2。
この映画では、こうした点に問題があることに言及しているとともに、白人であるビリー役のオーディションに黒人の参加者がいたり、トランスジェンダーへのインタビューも黒人が多くいたりと、この点に自覚的です。
ただ、白人主義的な傾向を克服しようという試み自体も、結局は、資本があり、理論や研究が発達している、白人社会の中から出てきやすいということも、指摘しておかなければなりません。この映画自体、まさにそういう位置にあるとも言えます。
さて、ここまでは、トランスジェンダーに関する運動に内在する黒人差別の話をしてきましたが、トランス差別と黒人差別には共通点もあり、両者が苦しみを共有し、連帯していく方向性も示されています。
ここで、「ボーイズ・ドント・クライ」という実話を元にした映画が引き合いに出されます。この映画は、トランス男性を初めて明確に描いた映画とされ、主人公であるトランス男性のブランドン・テーナは、最後には殺されてしまいます。
「ノーオーディナリーマン」では、「ボーイズ・ドント・クライ」と合わせて、白人至上主義者によって黒人が殺されたある事件*3が重ねられて語られています。どちらも、属性や人種を理由に排除する、ヘイトクライムであると考えられている事件です。これらの事件を見て、黒人のトランスジェンダーは、「自分のことを明らかにしたら、殺されるんだと思った」とコメントしています。
前回の記事で、「ノーオーディナリーマン」は、トランスジェンダーが社会で遭遇する障害を描写しながらも、それだけを取り上げて当事者に暗い未来を想像させる作品ではなく、「ケア的」な作品、マイノリティをエンパワーメントする作品だということを書きました。この意味で、「ボーイズ・ドント・クライ」は、ケア的な作品ではないわけです。
また、黒人のジャズミュージシャンのなかに、一人ビリーが混じって演奏している写真が使われていたりもしましたが、これはこうした連帯の可能性を象徴的に示したものと受け取ることもできます。
ビリーの死後、ビリーの妻は、レズビアンだと決めつけられてメディアに取り上げられることがありました。(そしてその子供のビリー・ジュニアはゲイだ、という偏見を持たれることもあったようです。)
トランスジェンダーというのは、性自認、つまり自分の性をどのように自己認識するか、という点に関わる事象です。一方、ゲイ、レズビアンというのは、自分の性的指向、どういう相手に性的魅力を覚えるか、に関わるものです。
この二点は区別されるべきものなのですが、男女二元論的なものの考え方をする人にはなかなか理解できません。その結果、ビリーの取り上げられ方のように、トランス男性とブッチレズビアン(男性的な装い・振る舞いをするレズビアン)が混同されたりします。
また、そもそもこういった言葉だけで、その人の性自認・性的指向が一義的に理解できるわけでもありません。性のあり方は人の数だけあるということ、そして、自分がどのカテゴリーなのかという認識も時の流れとともに変化しうること、も留意するべきです。
さて、ビリーの話に戻しましょう。ビリーは、こうしたカテゴリーや概念が浸透する以前の時代の人です。もちろん現代的な治療法もありませんでした。ビリーは、現代の私達が考えるようには自分の性を考えなかったはずです。映画の中で、あるトランスジェンダーがそのことを指摘し、ビリーは「真の人生を生きた人」ではないか、と述べています。つまり、既存のカテゴリーに自分を当てはめて生きるのではなく、自分で自分の生き方を追求した人だ、ということです。
トランスジェンダーと医学
ビリーは、ビリー・ジュニアに最期を看取られました。映画の中では、その時の話がビリー・ジュニアによって語られています。ビリー・ジュニアによれば、ビリーは衰弱してからも、ずっと病院に行きたがらなかったそうです。そのまま家で息を引き取りました。
その背景には、ビリーのような生き方への理解が乏しかった80~90年代までは、(体が特殊なので、などと理由をつけられて)病院が診療を拒否していたことが挙げられます。また、自分の身体のことが露見することを恐れて、病院に行きづらいという事情もあったかもしれません。ビリーは、自分の望む治療を受けられず、怖い思いをし続けていたはずです。
映画の中では、その状況を変えるために、つまり老後の自分が安心して病院に行くことができるように、自ら活動家になったと語るトランスジェンダーもいます。
トランスジェンダーとステージ
ビリーは、ジャズミュージシャンとしてステージに立っていた人です。ここから、トランスジェンダーがしばしば舞台上や芸能界などに居場所を求めてきたことも指摘されています。
ステージの上に立つという行為は、他人からどう見られるか自分で決めること、自分の姿を自分で作り上げることでもあります。そこは普通の枠から外れることが許容される場所であり、社会の中にいづらさを感じる人々にとってしばしば逃げ場となってきたということが、映画の中で語られています。
他にも取り上げるべき話題が色々と出ていますが、ひとまずここで一区切りといたします。
次回(来週)も、「ノー・オーディナリー・マン」を取り上げます。次で最終回ということにして、映画の中ではっきりとは示されていないものの、関連して考えることのできるテーマについて取り上げる予定です。
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