達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

溝口雄三『中国の公と私』

 溝口雄三『中国の公と私』(研文出版、1995)を読みました。折角ですので、冒頭部分だけ紹介しておきます。

 この本は、中国(特に宋代以降)における「公」と「私」の概念について、その源流から近代に至る展開を描いたものです。特に、日本における「おおやけ」と「わたくし」の概念との対比を意識しながら書かれており、少し時代を感じるところはありますが、どなたでも興味深く読むことができるのではないでしょうか。

 まず中国の公私の原義だか、詳しくは次節で再述するとして、ここではとりあえず戦国末から後漢にかけての資料の範囲でみてみると、ム(=私)について『韓非子』は自環すなわち自ら囲むの意、『説文解字』では姦邪の意としている。これに対する公は、(一)群として『韓非子』のいわゆる「ムに背く」すなわち囲いこみを開くの意であって、ここから衆人と共同するの共、衆人ともに通ずるの通、さらに私=自環の反義として説文解字では「公は平分なり」としている。一方、(二)群として、これは 『詩経』の用例からの類推だが、共から衆人の共同作業場・祭事場などを示す公宮・公堂、およびそれを支配する族長を公と称し、さらに統一国家成立後は君主や官府など支配機構にまつわる概念になった。(p.3-4)

 氏は、まず中国における「私」「公」の原義について、このように整理しています。

・「私」:「自ら囲む」の意、「姦邪」の意
・「公」:(一)「囲いこみを開く」の意、(二)公宮・公堂、のちに君主や官府など支配機構にまつわる概念

 では、日本の「公」概念は?というのが次の話題です。

 一方、日本の公すなわちおおやけは大家・大宅で標記されるように大きい建物およびその所在地で、 オホヤケの枕詞が物多(ものさは)にとあることから古代的共同体における収穫物や貢納物の格納場所、さらにそれを支配する族長の祭・政上の支配機能をさす語であったと考えられる。律令国家の成立期に公という漢字が、天皇制支配機構に直接的にかかわるミヤケよりは、なお当時すでに古語化しつつあったオホヤケ概念と結びつけられたのは、オホヤケにまつわる古代共同体的な共のイメージが公の字の訓としてよりふさわしいと思われたからであろう。衆人とかかわる世間・表むきのことから、官・朝廷の諸事物に公の字があてられたのは、このおおやけの原義に由来するのであろうが、ただしここで注意されねばならないのは、オホヤケとして受容された公は、前述の(二)群の方にかたよっていて、(一)群の方はほとんど捨象されていたということである。つまり、おおやけの原義にはもともと(一)群の概念とくに通とか平分の部分は含まれていなかった。もともとおおやけは一応は共(軍事・祭事・農事などの共同性)を含みつつもなおその共を包摂する支配機能の方に概念の比重がかかっており、大和朝廷の政治イデオロギー上の要請からもその傾向はむしろ増幅された(平安期には公(おおやけ)は天皇個人を指す語にすらなった)。かつ当時かれらが導入した漢唐の文献は、先秦のそれに比べて、公については(二)群の方が優位であった、などの事情がそこには介在した。

 一見小さな差異だが、中国では(一)群の方は漢唐の間にも生きつづけ、さらに宋代に入ると天理・人欲概念と結びついてより深化し、特に近代に至ると、孫文の公理思想に展開するなど、ほとんど(一)群のみの、すなわち国家や政府を公とする日本の公とはまるで違う言葉のように差異が決定的となる。 ところがその差異が意外と明確にされないままきているので、明清以降の中国の公概念の展開をみるにあたって、そのことをあらかじめ念頭におく必要がある。(p. 4-5)

 ここで、先に挙げた二つの「公」概念のうち、中国では(一)が、日本では(二)が優位であったことが示されています。なお、本書の主眼はあくまで宋代以降の中国ですが、田原嗣郎氏の「日本の公・私」が合わせて収められており、日本における公・私の専論も読むことができます。

 中国における(一)の「公」の具体例を見ておきましょう。

 例えば秦の呂不韋が、「昔、先聖王が天下を治めるには、必ず公を先にした。公ならば天下は平らかであり、平は公より得られる。…天下を得る者は…公であることにより、天下を失するのは必ず偏であることによる。…天下は一人の天下ではなく、天下の天下である。…甘露時雨は一物に私(かたよ)らず、万民の主は一人に阿(かたよ)らない」(『呂氏春秋』貴公*1)と述べるときの公は偏私に対する公平であり、私の自環・姦邪に対する公の通・平分の義がここに生きているのがみられる。また漢代に編纂された『礼記』礼運篇の「大道が行われているとき、天下は公である(天下為公)」云々の有名な「大同」の個所は、 人々が自分の親族だけを大事にするのではなく、よるべなき老人・孤児や廢疾者を相互扶助し、あるいは余った財物や労働力を出し惜しみせず、要するに人々が「必ずしも己れのみに蔵(とりこ)まず」「必ずしも己れのみの為めにしない」、そういう共同互恵の社会を天下公の大同世界としてえがきだしているかにみえ*2、そのかぎりでこの公は平分の義を強くうちだしたものであるといえる。(p.5)

  そして氏は、両者の相違として「倫理性の有無」を取り上げます。

 しかし、にもかかわらず皇帝が支配者たりうるのは、タテマエであれ、共なり公平が期待されているからであり、それがなければ皇帝は単に天下をひとりじめする「独夫」「民賊」でしかないという 易姓革命の思想も背景にちゃんと流れているのであり、そのかぎりにおいては皇帝は一群がもつ公の倫理性から自由でありえない。これは日本の天皇が無条件かつ無媒介におおやけそのものであるのとは、やはり非常に違う。

 この倫理性の有無というのが、両者の差異をきわだたせる特徴の一つで、中国の公私が、特に(一)群については、公正に対する偏邪という正・不正の倫理性をもつのに対し、おおやけ対わたくしの方は それ自体としては、あらわに対するしのび、おもてむきに対するうちむき、官事・官人に対する私事・私人、あるいは近代に入って国家・社会・全体に対する個人・個というように、何ら倫理性をもっていない。公私のからみや対立はあっても、往々それは義理人情に擬せられうるもので、決して善・悪や正・不正レベルの対立ではない。強いて倫理性があるとすれば、おおやけのためにすることが支配の側からあるいは全体の意思として規範づけられる場合においてであり、その場合その支配者なり全体の意志の善・悪、止・不正は全く問題にならない。したがってかりにそれを倫理とよぶとしてもそれは所属する集団内部を紐帯するだけの閉鎖的なもので、むしろ対外的には当該集団の 私に従属することさえあり、公平なら公平の原理がもつ内外貫通の均一性・普遍性はみあたらない。

 当否はともかく、論理が明晰でとても読みやすい本でした。

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 ちなみに、以前「論文読書会」で溝口氏の論文を題材に取ったことがあります。合わせてご参照ください。

 

chutetsu.hateblo.jp

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(棋客)

 

*1:筆者注:原文は以下。「昔先聖王之治天下也、必先公、公則天下平矣。平得於公。嘗試觀於上志、有得天下者眾矣、其得之以公、其失之必以偏。凡主之立也、生於公。故鴻範曰「無偏無黨、王道蕩蕩;無偏無頗、遵王之義。無或作好、遵王之道。無或作惡、遵王之路」。天下非一人之天下也、天下之天下也。陰陽之和、不長一類。甘露時雨、不私一物。萬民之主、不阿一人。」

*2:筆者注:原文は以下。「大道之行也、天下為公。選賢與能、講信修睦、故人不獨親其親、不獨子其子、使老有所終、壯有所用、幼有所長、矜寡孤獨廢疾者、皆有所養。男有分、女有歸。貨惡其棄於地也、不必藏於己。力惡其不出於身也、不必為己。是故謀閉而不興、盜竊亂賊而不作、故外戸而不閉、是謂大同。」