達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル:フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(1)

 ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル:フェミニズムとアイデンティティの攪乱』竹村和子訳、青土社、2018、新装版)を改めて読みました。数回に亘って、メモ書きを残しておこうと思います。

 今回は、議論の入り口ということで、本書で特に主眼に置かれる「セックス/ジェンダー」という二項対立の枠組みに対するバトラーの批判を簡単に整理しておきます。以下、第一章・第二節「〈セックス/ジェンダー/欲望〉の強制的秩序」のp.27-30をまとめたものです。

 

 セックス/ジェンダーの二項対立とは、「生物学的で人為操作できないものとしてのセックス」と「文化によって構築されたものとしてのジェンダー」という対応があると仮定する枠組みのことです。一言で言えば、本書はこの枠組みを解体することを試みる書になっています。

 まず、バトラーは、そもそもこの二つの区別を想定していること自体が、「男・男性的なものが、オスを意味するのと全く同様に、メスを意味することができるし、逆に、女・女性的なものが、メスを意味するのと全く同様に、オスを意味することができる」ことを示すのであって、両者の根本的な断絶が明らかになっているとします。(ちなみにバトラーは、本書の中でこうした批判の仕方をよく用います。つまり、既存の思考の枠組みのなかに、すでにその枠組みを崩壊させる萌芽がある、という論じ方です。)

 そして、ここから浮かび上がるもう一つの問いは、現代社会の背景に想定されている「所与のセックス」「所与のジェンダー」が、どのようにして「所与」のものになっていくのか、という疑問です。

 バトラーは、「自然に由来する事実としてのセックス」は、政治的・社会的な利害に寄与するために、さまざまな科学的言説によって自然な事実であるかのように作り上げられたものであると指摘します。つまり、セックスもジェンダーと同様、社会的に構築されたものと考えるわけです。

 このように考えると、ジェンダーは、これによってセックスそのものが確立されてゆく文化的装置・生産装置という立ち位置にあることが分かります。分かりやすく言うと、「言説・文化としてのジェンダー」という形で「ジェンダー」が語られることによって、逆に「セックス」が「前-言説的なもの」(つまり「自然の事実」)として立ち現れてくる、というわけです。

 

 本書の内容は多岐にわたり、バトラー以前のさまざまな議論が踏まえられているので(特に精神分析構造主義への批判)、なかなか読みにくいところもあります。また、本書が書かれた当時の問題意識をある程度共有していないと、大きな誤読をしてしまう可能性もあります(上の要約部分だけでも、誤解を招く可能性があります)。

 こうした点について、ジェンダー・パフォーマンス:トランスアドヴォケイトによるジュディス・バトラーのインタビュー | ウィメンズアクションネットワーク Women's Action Networkという記事で、バトラーが2014年に答えたインタビューの翻訳が公開され、また解説がなされてます。少し引用して示しておきます。

 『ジェンダー・トラブル』はおよそ24年前に書かれたもので、その時私はトランスの問題について十分によく考えていませんでした。一部のトランスの人々は、ジェンダーパフォーマティブだと主張することで私がジェンダーはすべてフィクションであり、人のジェンダーの感覚はそれゆえ「本物でない」と言っているのだと考えました。これは決して私の意図するところではありませんでした。私はジェンダーの現実が何でありうるかに関する私たちの感覚を広げようとしていました。しかし私は人々が何を感じているのか、身体の一次的な経験がいかに表明されるのか、そしてセックスのそのような側面が承認され、支持されることに対する全くの喫緊かつ正当な要請により注意を払う必要があったと思います。ジェンダーが流動的で、変更可能だと主張するつもりはありませんでした(私のジェンダーは間違いなくそうではありません)。私が言わんとしていたことはただ、私たちはみな、病理化、非現実化、ハラスメント、暴力の脅迫、暴力そして犯罪化なしに自らの生を定義し追求するより大きな自由を持つべきだ、ということです。私はそのような世界を実現するたたかいに参加しているのです。

https://wan.or.jp/article/show/8642

 また、バトラーは、本書の冒頭で、「家父長制・男社会という普遍的・覇権的構造のなかに、女の抑圧の単一の形態がある」という主張が、西洋的な抑圧概念に固執したもので、非西洋的な文化を植民地化するものとして批判しています(この批判自体は、バトラー以前からあるものです)。

 こうした考え方は、近年の女性史・ジェンダー史研究にも大きく反映されています。以前、筆者が主筆した「中国の女性史」というWikipedia記事も参考になると思います。

ja.wikipedia.org

 本書は、「普遍的・覇権的な家父長制・男社会」が否定されているのに、このテーゼから導かれる「女という共有概念がある」という考えを捨て去るのが難しいことを指摘し、その前提となってきたセックス/ジェンダーの枠組みを考え直すという方向へと話が進み、上でまとめた内容に繋がってくるわけです。

 

 次回は、また別の観点から本書を取り上げます。

(棋客)