達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

文フリで買った本③―『MagazineF』と『From the Hell Magazine』

 文フリで買った本の感想を書く記事の続きです。今回は、「四面楚歌系クィアメディア」を名乗る『MagazineF』vol.1, 2(竹輪書房)と、文乃(Ayano)さんの『From the Hell Magazine』vol.1, 2から。

 なお、二つの文章は、全く同じ話をしているというわけではなく、まとめて紹介するのはよくないかもしれません。あくまで別筆者の別物の文章として読んでください。

 

 まず『MagazineF』vol.1に載っている、えのきさんの「えのきのばりぞ〜ごん! アライ(Ally)/レインボープライド」を読んでいきます。(ここでいう当事者とはLGBTQ当事者を指します)。

 アライという言葉は、「自分は当事者ではない/非当事者である」と当事者性の有無をはっきりさせるものです。……その区別に基づいて「弱く、差別から守られるべきLGBTQと支援者アライ」みたいな図式をつくって固定化するから、「差別されているLGBTQのみなさんを、アライのわたし(たち)が守ります」という思い上がったメッセージを発してしまうのでしょう。

……わたしは、マジョリティ/マイノリティという二つに分ける考え方や当事者性の有無といった、この線を引き直す作業に違和感があります。だって、別に当事者性の有無を明らかにしなくても闘えるくない???と思うから。

 前回の記事の「反差別の実践」と少し関わる話です。性的少数者に対する差別に対して闘う時に、当事者性の有無はどう考えるべきなのか。えのきさんは、現代社会の規範への対抗のために連帯するにあたって、当事者性の有無は問わなくていいということを述べています。

 たとえば性別二元論って、性別を女性と男性のだった2つに振り分け、人々に「女らしい/男らしい」振る舞いを期待する。それってかなり窮屈だし、そもそも無理があることです。たとえば異性愛主義って、女性と男性に見える人がいたら何でも雑に、強力に、恋愛の文脈に回収してしまう。「男女の友情は成り立たない」といった、現実に即してない言説がまかり通っている。たとえば恋愛伴侶主義って、「たった一人の人と永遠の愛を誓い、添い遂げることこそが人として最高の幸せなのだ」と、かなり狭い幸せの範囲を押しつけてくる。

……

 これらって、これらの"ふつう"って、LGBTQ当事者でなくても(つまりシスジェンダー異性愛者の多くの人や、「当事者」という言葉にしっくりこない人などにとっても)しんどいものじゃないですか?それってみんなでなくしていけるよう、闘っていけるものじゃないですか???

 そのとき、自分が当事者がそうでないかっていう線引きって、そんなに重要かなあとわたしは思います。

 クローズドな情報交換の場を作るときなど、どうしても当事者性を要件にせざるを得ない空間もあるかもしれません。しかし、少なくとも既存の枠組みや規範に抗う闘いを共にすることは、当事者であろうがなかろうが可能です(というか積極的に闘うべきです)。

 

 これと少し繋がる話が、『From the Hell Magazine』にも載っています。文乃さんは、zineを作って言葉を紡ぐ理由を以下のように述べています。

 私がLGBTQIA+当事者として差別された経験やそこで考えたことは、実際に受けた人間にしか言語化できないものだと思ってる。だからこそ、それを可視化して社会に発信する文章をよく書いてる。

 しかし、こうして書いた文章に対して、「大変だね」「応援してるよ」といった感想がつくのは、筆者が望むことではありません。

 「大変だね」「応援してるよ」という声。そう言う人達に悪意は無いだろうし、むしろ善意しかないのだろう。でも、私としては同情も腫れ物扱いも、「応援」もされたくない。

 個人としてケアするんじゃなくて、そのエネルギーを差別構造を弱める方向に向けてくれないかなと思う。差別や搾取は、社会の問題であって差別される人個人の問題じゃないから。

 そして文乃さんは、差別自体が人を死に追いやるものであり、それと闘わないこと・見て見ぬふりをすることは、間接的に人を殺すことに繋がるのだから、特権側にある人はそれを許さないように闘うべきだと言います。

 私は一緒に闘って欲しい。闘ってくれる人を探している。積極的にアライになって欲しい。(アライって言葉、差別の当事者は差別がある環境の構成員全てという私の考えからするとあまりしっくりきていなくてあんまり好きじゃないけれど、踏まれてない立場で差別に抗っている人を表現する言葉としてはアライ以上に適切でわかりやすい言葉を知らない)

 アグレッシブに連帯して、一緒に平和主義過激派になってほしい。

 「アグレッシブな連帯」「平和主義過激派」とはいい言葉ですね。

 こうして読んでいくと、「アライ」「支援者」という言葉によって線引きし、当事者の個人をケアするという方向に進むと、自分が差別の構造を強化する加害者であるということが見えにくくなっていく、という問題があることに気が付きます。

 

 これらの文章読んで、以前にも紹介したことがありますが、高島鈴『布団の中から蜂起せよ: アナーカ・フェミニズムのための断章』人文書院、2022)の第二章に収録されている「シスターフッドアジテーション」を思い出しました。

 また、支援者と当事者、研究者と当事者の関係性やつながり方はどうあるべきかといった話については、小松原織香『当事者は嘘をつく』筑摩書房、2022)にも関連することが書かれています。この書のテーマは少し異なるものですが、「支援者」また「研究者」の在り方を問い直す本として、繋がるところがあります。

 ほかに、以前紹介した映画「サラダは人生」「私の愛を疑うな」は(第16回関西クィア映画祭(2) - 達而録)、ともに闘いながら日常を送る人の連帯を描いた作品であり、これも思い出したりしました。

 

 ちなみに、「MagazineF」の「F」には色々な意味が掛けられているようですが、その一つは「Fukuoka」です(福岡で作られているマガジンらしいです)。私は福岡出身なのですが、このMagazineを通して「本と羊」「Book-R 古門戸」といった本屋の存在を知りました。帰省の折にでも訪れてみたいですね。

(棋客)