達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

『クィア・スタディーズをひらく』第五章「教育実践学としてのクィア・ペダゴジーの意義」

 先週は少々体調を崩しており、ブログ更新をお休みしました。

 今回は、菊地夏野・堀江有里・飯野由里子編著『クィア・スタディーズをひらく』(晃洋書房、2019)、第五章「教育実践学としてのクィア・ペダゴジーの意義」(渡辺大輔)の第二節(p.142-147)のメモを残しておきます。

 ここまでで、筆者は、性の多様性に関する日本の教育行政が遅々として進まないこと、そしてそもそも「教育」という営みのもつ課題と、これに対する「批判的教育学」の取り組みを述べます。そして第二節で、教育実践を批判的に問うものとして、ブリッツマンが唱えた「クィア・ペダゴジー」という概念を紹介します。

 まず、筆者によれば、ブリッツマンは、「クィア理論」を以下のように定義しています。

さまざまな慣行や規定の中での行為(パフォーマンス)の繰り返しにも、それらを転覆(攪乱)させる行為を引き起こす可能性があることを見出し、固定化されたアイデンティティを問題視し、異性愛がいかに自然なものとして正常化されるのかを明らかにするもの(p.142)

 そして、これを教育学に導入し、教育現場における「知」と「無知」という枠組みや、自然化・正常化される「主体」を生み出すヘテロノーマティブな教育(異性愛規範を強化する教育)を改めて考え直していく実践が、「クィア・ペダゴジー」だとブリッツマンは言います。

 そしてブリッツマンは、そのためには以下の「三つの学習」が必要としています。

 一つ目が「限界の学習」です。これは、私たちの身体や人間性を「どう解釈するか」ではなく、「何が解釈可能とさせているのか」を問うものです。また、「何が思考を停止させ、また思考を可能にさせるのか」を問うものでもあります。

 まず前提として、ブリッツマンは、「アイデンティティ形成」は、何かに同一化していくことではなく、社会からの影響を大きく受ける関係性によって形成されるアイデンティティ、さまざまな関係性のなかで再構築され続けるアイデンティティと定義します。よって教育実践の課題は、(主体をある決まったアイデンティティの枠組みに押し付けるのではなく、)アイデンティティ形成の機会や選択肢を増やすことにあると言います。

 しかし、この際、「これまで周縁化されていた存在を主流の側に付け足す」という方法は採りません。この方法では、標準のイメージ通りの者だけがそこに合流し、それが欠如した人は「下級の存在」であるとする営みを再生産してしまうからです。

 つまり、「マイノリティを「他者/外部」とする概念を生産し、それによって「自己/内部」を標準化する」という不公平で二元的な構造を指摘し、その差異のある両者の関係性を同時に思考することが課題となります。

 渡辺氏は、以下のようにまとめています。

つまり「限界の学習」とはある存在や行為を「知っても安心なもの」として統合しようとするときに、その「外部」として追いやられる「知るに耐えないもの」とは何か、何がその境界線を引くのかといった、教育によってもたらされる知の構造を再考することを提唱するものである。(p.144-145)

 

 二つ目が「無知の学習」です。

 「主流」が標準化されることによって、その外部に対して「無知」であることが許され、周縁化された主体が消去されたり、「外部」として固定化されたりするわけですが、このようにして固定化されたアイデンティティを問うことを課題とします。この課題を意識しなければ、自分自身がどのように関わりを持ち、アイデンティティの権力関係が構成されているのかを問うことがないままに、また、誰もがクィアな部分をもつのだという自己の捉えなおしがないままになってしまいます。

 これについて、渡辺氏は以下の例を挙げています。例えば、性の多様性を学ぶために、ゲイ・レズビアンの文章をよむ学習があったとします。ここでは、「私たち/他の者たち」というアイデンティティの監視が生み出され、無知である「私たち」には「知る権利」があり、その外部に固定化された他者には「告白する義務」があるという、新たな排除の構造が作られてしまいます。また、こうした営みを通して、自らのアイデンティティ形成の機会を閉じてしまうことになります。

 渡辺氏は、第二を以下のようにまとめています。

ブリッツマンは、知や無知、知ることを前提とした主体を作り出す教育という営み自体に、知る主体が無知でいることが許されている現状をどのように問い直すかが求められるという。(p.145)

 

 三つめが「読む学習」で、ここで以上の課題にどう向き合うかということを示します。これは、「差異の承認」「自己内対話」「他者の読み取り」を分析することを指します。

 さきほどのアイデンティティ形成の捉え方を発展させ、アイデンティティを同一化の反復とするのではなく、自己との対話を通して、異質性や差異、分裂や混乱を発見・発掘し、それを承認することからはじまる実践を重要視します。ここでは、「他者」または「同質なもの」としてアイデンティティを読むのではなく、「他者」を通して自己の中の差異を読むことが試みられます。

 これによって、主流であるものの標準化、また「自己を何かと同定し証明しなければならない」と迫る圧力を越えて、学習者にアイデンティティの確証を無理強いするのではなく、アイデンティティとしての差異を認識していくことが重要であるというところに到達します。

 こうして考えると、支配的・二元的な権力構造を組み替える教育実践として、つまり「教える/学ぶ」ものとしての「教師/生徒(学習者)」という二元的な権力構造への問いかけとして、クィア・ペダゴジーは見ることができると述べられています。

 

 本文では、ここから、「教師/生徒(学習者)」という構造を溶かしていくような過去の日本における教育の実践例を取り上げ、再検討しています。この記事で取り上げるのはここまでですが、ぜひこの先もお読みください。

 また、渡辺大輔「学校教育をクィアする 教育実践への投機」(『現代思想』vol.43-16, 2015)では、筆者のグループによる実際の教育実践がより詳しく説明されています。

 

 さて、ちなみに最近、堀川修平『気づく 立ちあがる 育てる ―日本の性教育史におけるクィアペダゴジー』(エイデル研究所、2022)という本も出版されたようです。専門知識が無くても読みやす本になっているとのことですので、こちらも読んでみたいと思います。

(棋客)