達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

江原由美子「『差別の論理』とその批判―『差異』は『差別』の根拠ではない」(3)

 前回の続き。江原由美子「『差別の論理』とその批判―『差異』は『差別』の根拠ではない」(『増補 女性解放という思想』ちくま学芸文庫、2021)、今回はp.128-137を読んでいく。

〈差異は差別の根拠ではない〉

 差異の内容に詳しく立ち入って論じることは、「差別」現象を明らかにすることとは無関係である。差別は差異を根拠にしていない。「差別」現象においては、被差別者はその属性や特性がそれ自体として問題になることはない。被差別者は、外見的・可視的な「標識」によって認知され、それだけで排除される。

 よって、あたかも、現在の差別者と被差別者の間に、実在的な「差異」が存在し、その内容的な吟味こそ「差別」問題の解決の鍵であるかのように仕立てるのは、根本的に誤っている。むしろ、これこそが差別の論理の貫徹を許してしまうものである。

 ここから、以下のことが指摘できる。

  • 差異の内容の分節は、反差別の言説の困難性を根本的には解決しない。なぜなら、「差別の論理」の立てる差異の不当性は、その差異が自然的・身体的次元に限定されていないから発生するわけではないからである。
  • 「差異」をめぐる被差別者の対立は、被差別者内部での解放イメージの相違から生まれるものではなく、差別を差別として被差別者が問題認識するときに論理として強いられるものでしかない。
    例:女性が「女性も男性も同じ能力がある」と主張せざるを得ないのは、そういうことなくしては「差別」的事実を指摘できないからで、「差異=悪」という思い込みによるのではない。
  • 反差別の言説の矛盾の根拠を、「差異の次元」の認識の相違や、感性・目的・解放イメージの相違といった実質的な対立に求めるのは、被差別者の分裂や対立を実体化してしまう点で、認識の誤りであると同時に、有害でもある。
  • そもそも被差別者は、「差別」という事実の前において同一であるだけで、状況においては多様である。被差別者を単一カテゴリーの集団として規定するのは差別者であって、被差別者が反差別の運動過程において集団形成することはあるが、対立が存在するのは当然である。

〈被差別者だけが自己の主張の倫理性を断罪されること〉

 よって、被差別者だけが、自己の主張の倫理性を断罪されるのはおかしい。以下が具体例。

  • 「労働能力における男女の差異はない」と主張した女性が、「一般の女性の状況を理解せず、自分の利益だけを主張するエゴイスト」とされる。
  • 軽い「障害者」が、「差異が無いから差別しないでくれ」と主張した場合、軽い障害者と重い障害者の対立を生むことになり、批判される。

 このようにして、被差別者の側に分断をもたらし、相互の理解を不可能にさせるものこそ、「差別の論理」である。しかし、そもそも「なぜ被差別者だけが、自分の属性に対して、それが身体的属性なのか社会的属性なのか偏見なのかなどという区別を要求されなければならないのか」ということが問われなければならない。

〈本来の差異性を感受できなくなる〉

 そもそも差別における「差異」は、「被差別側の固有の、特殊な属性」として規定される。しかし、自然的・身体的次元の「差異」だけに限定しても、「差異」は、性別や、健常-異常とかいった枠を超えた、より多様なものであるはずである(全く同じ人間などどこにもいないのだから)。この多様性への感受性を喪失させているものこそ、特定の「差異」だけの強調である。

 「差別の論理」の指摘する「差異」だけに着眼し、性別や健常-異常の「差異」だけを自然的・身体的次元に限定して論じたところで、その「差異」が自然なもの、実在的なものであるとは言えない。差別の論理によって一部の差異だけが取り上げられてしまっているからである。

 よって、「差別の論理」によって示される「差異」を実在的な「差異」として肯定することは、かえって、特定の社会・文化的条件が課す認識装置を普遍的なものとして絶対化していくことになる。それは現実の豊かな「差異性の世界」に対する感受性を失わせてしまう故に、逆の効果しか持ち得ない。

 以上から、解放のイメージの提示をすることも重要だが、それと同じぐらい、差別の論理の巧妙な仕掛けと、反差別言説に強いられる困難性の解明が重要であることが分かる。

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(私のコメント)

 最近は「多様性」という言葉がよく取り沙汰されるが、そこで強調されるのは、差別の論理で取り上げられる「差異」だけであることが多い。多様性という言葉を用いながら、かえって差異に対する感受性が失われてしまっては、意味が無いどころか、差別を加速させたり、新たな排除を生むことにつながったりするだろう。

 一例として、トランスジェンダーのスポーツ大会参加について、井谷聡子さんは以下のように述べている。

 人間の体は複雑で、生まれつきの性差だけで運動能力が決まるわけではありません。生まれた地域や育った環境など、社会的な要因も影響します。IOCも21年に発表した枠組みの中で、トランスジェンダーや体の性の多様な発達を持つ選手が、不当に有利だという仮定はできないと明示しています。

 ところが、トランスジェンダーの女性だと分かった途端に、選手の持つ様々な能力や努力が無視されて、「生物学的な性差」だけに注目が集まり、「不公平」だと受け止められてしまいます。

https://digital.asahi.com/sp/articles/ASS8F0GWLS8FUTIL008M.html?ptoken=01J55PN87TRQPYDFWT8BGVTH7X

 この指摘からも、もともとさまざまな差異があるなかで、一つの差異だけを取り出して議論すること自体が、差別的であるということがよくわかる。

 

 本論に戻って、「あたかも現在の差別者と被差別者の間に、実在的な「差異」が存在し、その内容的な吟味こそ「差別」問題の解決の鍵であるかのように仕立てる」ことこそが「差別の論理の貫徹を許す」という指摘は、非常に重いものである。というのも、実在的な差異にこだわる議論をすることは、最初は「仕方なく陥ってしまう論理的要請」として擁護されるかもしれないが、それを繰り返すのは「差別の論理の貫徹を許す」、つまりそれこそが差別であるという指摘として受け取れるからだ(この解釈は私の意思がかなり入っているが)。

 差別の論理から離れられないということは、それ自体差別的な議論になりえる可能性をもつわけで、いずれ差別そのものと区別がつかなくなっていくだろう。私はこの話から、差異の議論にはめられた被差別属性の論者(例:かつてのフェミニスト)が、その後にトランスジェンダー排除言説を唱えていく過程を想起する。(1985年の論文でありながら色褪せないと私が思えるのはこうした点にある。)

 なお、「解放イメージの相違」の話は、本論文でたまに顔を出す。たとえば、同じく反差別を掲げていても、どういう未来を想像するか(たとえば政治的な体制・主義、制度など)によって対立が生じうるということを指すのだろう。これも、著者が闘う中でぶつかってきた壁の一つなのだと思うが、詳しく言及されるわけではない。私も、問題はまず目の前の差別に対してどのように闘うかということにあると考えているので、この著者の書きぶりは納得がいくものではある。

(棋客)