達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

東大パレスチナ連帯キャンプの「セイファーテント」声明文が好きという話

 前回の最後で述べた「安心」と「安全」の違いについて、考えたことを書く。まずは、東大パレスチナ連帯キャンプの「セイファーテント」の声明文の全文を以下に転載する(https://www.instagram.com/ut4palestine/p/C7nsn8HB4rD/?locale=de-DE&img_index=1 より)。

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 教員有志の差し入れによって、キャンプ運営委員としてセイファーの取り組みをしているAの念願であった、セイファーテントが設営されました。立ち上げにあたって、少し長くなりますが、Aの個人文責で、このテントの主旨について説明させてください。

 このテントは、マイノリティのためのものではありません。それはなぜかというと、このキャンプのどのスペースも、マイノリティの学生・参加者が、安全にいられるべきだからです。安全であるということは、安心できることとは異なります。このキャンプは、大学当局に対して、そして何より虐殺を続けるイスラエル政府に対して、抗議をするために、多くの学生が自分ができることを考えて必死に続けているキャンプです。そこには常に緊張感があり、安心のための隙間はありません。

 またここは、それぞれに別のコミュニティで、別の活動をしてきた学生たちで運営しているキャンプです。運営委員の間でも、常に衝突、意見の違い、初対面のぎこちなさ、話し合い、時間をかけて行われる議論、喧嘩、和解を繰り返し、少しずつ「何のために」「どうやって」このキャンプを続けるのかが決められています。訪れるそれぞれの知り合いの学生たち、テントをみて「何をしているのだろう」と声をかけてくれる学生たち、SNSでの発信をみて駆けつけてくれるさまざまな人々…。この場の強みである、「さまざまな人がいること」ーそれは、思想、経験、属性etc—は、そこに常に強力な緊張感があることと裏表です。私が考えているのは、みんなにとって居心地が良い場所を目指す(それは、いつもの仲間だけでやっていれば、ある程度実現されることもあります)ことではなく、「居心地の悪さ」ができるだけ均等に配分されているキャンプを目指すことです。それが私が、安全な、より安全なキャンプといったときに考えていることです。

 では、どうやったら、より安全な場を作ることができるのか。それは例えばグラウンドルールを決めることかもしれません。でも、規則を作るだけでは、当然「より安全な場」は実現しません。結局のところ、ありきたりになりますが、その場にいる人全員で常に、より安全な場とはどういう場か、どうやったらそれに近づけるのか、例えばどのようなプラカードがあればいいのか、机椅子はどのように配置されているべきなのか、いつも同じ人が片付けをしていないか、私が関わったこの運動ではこうだった、といった話をし続けることでしか近づくことはできないと考えています。そう信じて私は、毎日テントに座っています。

 でも、それでも。今ここで話をするのは無理だ。ちょっと疲れたから静かに落ち着いて考えたい。そんな時はいくらでもあります。モヤモヤしている気持ちを、頑張って言葉にしなくてもわかってくれる人といたい。取るに足らないことだと絶対に考えていないと信頼している人と話したい。一緒にブチギレてくれる仲間が欲しい。そんな時、セイファーテントがその役目を果たしてくれることを期待して、ここに立ち上げます。

 このテントは、「セイファーのことを全て引き受ける(マイノリティの)運営委員が常にいて、守ってくれる」場所ではありません。静けさと怒りの共感を求めてやってきた人たちに、それを与えてくれる場所であることを願っています。

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 東大のパレスチナ連帯キャンプでは、参加者や訪問者がなんとなく一緒にいる空間と別に、セイファーテントが設けられており、上の文はそのテントが作られた時の声明文である。

 大雑把に言えば、さまざまな属性の人が交差する空間にあっては、「全員にとって居心地の良い場」(全員の安心)を目指すというよりも、「居心地の悪さ」(不安や障害など、広く色々なものが含まれると思う)が各個人に均等に配分されることを目指すと良いのではないか、という考えである。

 前提として、誰もが「安全に」その場にいる権利があるし、対話する権利がある。もし、その場に何らかの方法で他人の安全を脅かす人がいた場合、事情を考慮した上で、補助や仲介役をつけるとか、ゾーニングするとか、また極端な場合にはその場から排除するとか、何らかの対応が必要になる。(「他人の安全を脅かす人」というのは、必ずしも悪意がある人とはイコールではないことにも注意が必要だ。)

 その上で、「居心地の悪さを分け合う空間」を目指すとは、どういうことか。例えば、さまざまな人がいる場で意見を言うことや、その場で交わされる意見を聞くことに対して、あまり不安を覚えない人もいれば、大きな不安を覚える人もいる。大きな傾向で言えば、前者は抑圧を受けない属性の人であることが多く、後者はその逆であることが多いだろう。また、そもそも使用言語が異なったり、口で意見を伝えることにハードルがあったりして、さまざまな補助が必要な場合もある。何も工夫しないなら、今の社会の大抵の場所と同様に、「居心地の悪い」思いをする人がかなり片寄ることになってしまうだろう。

 それでは、インターセクショナルな差異を認めあった上での対話や議論が成立する土台が崩れてしまう。なぜかといえば、居心地の悪さを感じさせる背景には、交差する社会の抑圧があるわけで、個人の差異を分かり合うことができていないということは、差異があることが意味する本質(つまりその属性の人が体感する差別や抑圧)を理解できていないからである*1。差異を認識するという時、それは表面上の違いを把握するということだけではなく、そこにかかる抑圧の経験も含めて分かり合うということである。だから、「居心地の悪さ」が偏っている状態では、差異を認め合った対話は成立しない。

 上の文章では、ここからもう一歩踏み込んだことが書かれていて、そういう「居心地の悪さ」の配分が必要になる場(=人の特性・属性の相違や、路線・主張の相違がある場所)こそ、「この場の強み」である、つまり運動として強みを発揮できると述べている。いつもの仲間とやる運動との違いがここにあるということになる。

 

 ただし、これは、あらゆる場所で「安心」を求めてはいけないという話ではない。というか、安心できる場所がないとわれわれはなかなか生きていけない。いわゆるケアを求める場所では、「安心」を追求する必要があると思う。それは、上の文章で言えば、「静かに落ち着いて考える」、「頑張って言葉にしなくてもわかってくれる人といる」、「取るに足らないことだと絶対に考えていないと信頼している人と話す」、「一緒にブチギレてくれる仲間が欲しい」、そういうことができる場所である。特に不特定多数の人が集う場所では、みんなが集う空間とは別にそういう空間を確保することが大切で、この場合はそれが「セイファーテント」ということになる。

 加えて言うと、「安心」を追求せず、「居心地の悪さを分け合う」ことを掲げた対話ではあっても、結果として「安心」であったということや、ケアされたということはあり得るだろう。もしそういう対話ができたら、とてもいい気持ちになると私は思う。

 

 色々書いたが、まず大前提として、「全員の安心を求める場作り」と「全員の居心地の悪さを分け合う場作り」のスローガンでは、目指していることが全然違うというわけでもないし、そこで想像されている大きな方向性も同じだとは思う。

 ただ、後者をスローガンとして掲げたときの効果の違いは、「私は安心してるから平気だ」として思考停止する可能性を低くすることにある。後者のスローガンなら、「私はこの空間で安心しきっている。もしかして、他に安心できてない誰かがいて、それが私に配分されていないのではないか」と感じ取ることに繋がりやすい(かもしれない)。その気づきの可能性を開いているのがこの言葉だと思う。

 というわけで、この「セイファーテント」声明文は私はかなり好きな文章である。何かの参考になればと思って紹介しておいた。

 

 なお、私はこのパレスチナ連帯の運動に、立ち上げの数日後から一か月ほど手伝っていましたが、今は参加していないことを付言しておきます。(ただ、この文章の主執筆者は私ではありません。)

(棋客)

*1:以前、山家さんの『生き延びるための女性史』から「親しい関係のなかでゲイであるということが伝わっていたとしても、異性愛中心主義やジェンダー規範への批判が共有されなければ、そしてなによりもゲイとして生きてきた経験がしっかりときかれる空間でなければ、そこがまた新たなクローゼットになってしまう」(p.79-80)という文を引いたが、この話もこの文脈で理解できると思う。→山家悠平『生き延びるための女性史―遊郭に響く〈声〉をたどって』(1) - 達而録