達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

江原由美子「『差別の論理』とその批判―『差異』は『差別』の根拠ではない」(2)

 江原由美子「『差別の論理』とその批判―『差異』は『差別』の根拠ではない」(『増補 女性解放という思想』ちくま学芸文庫、2021)、今回はp.122-128を読んでいく。

※前回→江原由美子「『差別の論理』とその批判―『差異』は『差別』の根拠ではない」(1) - 達而録

〈反差別の言説の構成要素〉

 アルベール・ミンミによる「差別主義」の定義は、「現実上の、あるいは架空上の差異に普遍的・決定的位置づけをすることであり、この位置づけは差別者が己の特権や攻撃を正当化するために、被害者の犠牲をも顧みず己の利益を目的として行うものである」というもの。ここから、差別に対する批判(反差別の言説)を組み立てるのならば、以下のようなロジックになると想定される。

  1. 現実上の、あるいは架空上の差異が「存在しない」、あるいは存在したとしても「それは大きな差異ではない」ことを強調し、差異の存在それ自体を否定することによって、差別を批判する。
  2. 差異の存在は認めるとして、その際に被差別者に不利をもたらすような価値付け、すなわち「よい」「わるい」といった被差別者の価値を低下させるような価値付けを批判する。
  3. 差異、あるいは評価づけがどうであろうとも、不平等な待遇は不当であるとして批判する。

 実際、現在の「反差別」の言説は、以上の三つの構成要素からなることが多い。

〈三つの言説の関係性〉

 しかし、これらの批判は正当すぎるぐらい正当であるにもかかわらず、有効な批判にはならないことが多い。背景には、この三つの要件の絡まり合いがある。

 まず、(3)から、「不平等な待遇はいかなる状況においても許容されるべきではない」と言っても、問題は全く解決しない。なぜなら、そもそも「不平等な待遇」が「不平等」として認識されていないことに問題があるからである。

 すると、不平等を不平等として認識させる論理が必要とされる。そのために、「差別者と被差別者は同一のカテゴリーだ」ということを主張せざるを得ない(もともと差別者と被差別者には「差異」があるということにされて異なる待遇が正当化されているため)。これが(1)の主張である。

 しかし、この(1)の主張は、(2)と関連せざるを得ない。なぜなら、常識として認識されている「差異」は、必ず特定の問題枠組みによって評価された「差異」だからである。

 我々の認識の構造として、事実と評価の峻別は困難である。たとえば「男女の能力差はあるか?」という問いが出された場合、「ある」「ない」といった答えが「事実」として出てくる。しかし、そもそもこうした問いの構図自体が(つまり「男女の能力差はあるか」みたいな問題設定の仕方自体が)、特定の能力を良しとする「評価」の枠組みの中に位置することを、我々はどうしても認識しにくい。だから、(2)から「差異の指摘」をするとき、評価的意味を含まずに行うことは困難である。

 以上のように、反差別の言説は(1)~(3)をすべて論じざるを得なくなる。すると、反差別の言説は、すべて「差異」をめぐって展開するということになっていく。(例:「女と男は違うのか、違わないのか」という議論。)

〈差異をめぐる議論は内部対立を生む〉

 差別であることを問題として立てるためには「差異はない」と言わざるを得ない。しかし、差異は被差別者の側にとって、依拠すべきアイデンティティである場合も多い。「差異がない」という主張は被差別者からの反発を招く。

 よって、「差異」と「差異の評価」、「現実的不平等」を区別することで「差別の論理」を打ち破ろうとし、正当な議論を立てても、結局個別的状況においては矛盾する。そして内部対立が生じ、「反差別の言説」を成立させることは難しくなる。

〈差異の内容を分節する方向性〉

 この内部対立を、「差異」の内容を分節・分類することによって克服しようという方向性もある。つまり、「否定すべき差異」と「肯定すべき差異」を区別し、前者は偏見や現実的諸条件を変革することによって克服し、後者は逆に積極的に受容しようと考えるわけだ。一例が、「差異」を以下の三つに分類する方法である。

  1. 身体的・自然的差異
    障害者・老人・女性など、身体的・自然的水準での差異*1
  2. 社会的・文化的に構成された差異
    財産・教育・労働条件といった「現実の不平等」から生み出された「能力」「意欲」「意識」などにおける差異
  3. 支配的集団の偏見としての差異
    支配者集団が被差別集団に対して与える「偏見」

 そして、③を批判し、②には現実の不平等を無くして「構成された差異」自体をなくし、①はむしろ積極的に承認し、①の差異を受容する豊かな解放のイメージによる運動の構築を是認する、という方向に向かっていく。

 これは、現在かなり一般的で、妥当なように見える。被差別者側から自らのアイデンティティを積極的に提示したい場合もあることを忘れてはならないし(例:「ブラック イズ ビューティフル」という言葉)、そうした可能性をも開く言説にはなっている。

〈本論文で提示したい根本的な疑問と主張〉

 しかし、ここで我々は、「そもそも実在的な「差異」が「差別」の根拠になっているのか?」「実在的な「差異」などあるのか?」という根本的な問いを立てなければならない。もし、差異が差別の根拠ではないのなら、差異の内容をいくら論じても差別を明らかにすることにはならないからである。

 実は「差別」現象においては、被差別者はその属性や特性がそれ自体として問題になることはない。被差別者は、外見的・可視的な「標識」によって認知され、それだけで排除されている。(そもそもメンミが「差別主義」の定義で述べた「差異」も、こうした「標識」の意味での差異である。)

 つまり、「差異の実在的な内容」に詳しく立ち入って論じることは、「差別」現象を明らかにすることとは無関係である。そもそも差別は差異を根拠にしていないからだ。(以下、次回に続く)

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(私のコメント)

 以上の議論では、差別に反対するために、相手に納得してもらえるような言葉を編むときのジレンマが理論的に分析されている。おそらくこのジレンマは、過去に著者自身が通った道なのだろう。

 最後の一段で、「差別の論理」を解き明かすための鍵が、そもそも「差別は差異を根拠に生じるわけではない」ことにあると提示される。つまり、差別は差異を根拠に生じるわけではないにも拘わらず、差別に反対しようとすると差異をめぐる議論に収斂するから、どうしてもうまくいかない、ということである。なお、ここで重要なのは、差別に反対する際に差異をめぐる議論が中心になってしまうという状況が、その言説の担い手のせいではなく、「差別の論理」の構造にはめられてしまうためであるということである。

 「被差別者は、外見的・可視的な「標識」によって認知され、それだけで排除されている」ということは、差別の原則として常に頭に置いておかなければならない。たとえば、関東大震災朝鮮人虐殺では、日本語をスムーズに話せるかどうかという「標識」をもとに排除された(その人が本当に日本人か朝鮮人かがいちいち判断されたわけではない)。オリンピックでは見た目でトランスジェンダー女性と判断された人が見るに堪えない酷い扱いを受けているが、これも見た目の標識から排除の対象として選ばれただけで、その人が本当にそうかということを差別する人が確かめるわけではない。女性差別も、その人が本当に「女性」なのかなんてことは気にされず、外部から分かる標識から「女性に見える人」が差別されている。これは見落としてはいけない点として分かっていなければならない。

 

次回→江原由美子「『差別の論理』とその批判―『差異』は『差別』の根拠ではない」(3) - 達而録

(棋客)

*1:むろん、これらを「身体的差異」「自然的差異」と表現すること自体に問題があるわけで、ここを読むと違和感を抱く読者が多いと思う。実際、当時の江原はそのことをはっきり論及しているわけではないように思われる(このへんがバトラー以前という感じがする)。ただ、最後まで読むと、議論全体の帰結としては、「自然的差異」みたいな問題化の仕方に乗ってはいけないという話になるので、いま読んでもそれほど違和感がない、と私は思う。