達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

藤高和輝『バトラー入門』についての(熱を込めた)感想

 藤高和輝『バトラー入門』(筑摩書房、2024)を読んだ。ちなみに藤高さんの文章は、以前別のものを紹介したことがある。

 私は、バトラーの『ジェンダー・トラブル』で論じられている、フロイトラカンフーコークリステヴァも、全く知らない。申し訳ないが一文字も読んだことがない。かつて、大学で西洋哲学の授業を取ったことがあるが、全然頭に入らなくて、結局、私はいわゆる「西洋哲学」の文法で書かれた本が全然理解できないことを自覚しただけで終わったりもした(これはいわゆる「西洋哲学」への偏見から来ているところもあると思うが)。

 ただ、『ジェンダー・トラブル』だけは、何となくすんなり頭に入ってきて、理解できた気がした(決して読みやすい文体ではないのに)。いや、「理解できた」というより、「共感した」「響いてきた」という方が近いと思う。不思議と、自分自身の生活の中での実感とも言うべき何か(「これってアレじゃん!」みたいな発見)と繋がって、30年も前にこんな本があるのか、と感慨にふけった。

 もちろん、これは「何となく共感した」以上のものではなくて、細かい議論はやっぱりよく分からないところが多い。背景をきちんと理解していないので、バトラーがどういう課題を抱えていて、どういう文脈の中でこういう本を書いたのかということも、知らないことが多かった。

 藤高さんの『バトラー入門』は、こういう経緯のある私にとって、まさに読みたい本で、知りたいことが書かれている本でもあった。こういう本が書かれるということは、こういう経験をした人も多いのかなと思って、ちょっと嬉しくもなったりする。また、私は『ジェンダー・トラブル』しか読んでいないので、バトラーの他著について知ることができたのも良かった。

 ちなみに、私が以前『ジェンダー・トラブル』を読んだ時の読書メモが以下の記事である。読み直してみると、とんでもなく薄っぺらい内容だが、当時の自分がどこに興味を持ったのかということや、何と何が繋がったのかということは何となく分かる気がする。

 特に(2)が印象に残った箇所で、藤高さんの本だと第五章~第六章あたりで引用されている文と多く重なっていたりする。

 『バトラー入門』の内容については、そのまま読むのが一番わかりやすく、わざわざ説明するほどでもないので、ここには概要などは書かない。ぜひ手に取って読んでほしい。『ジェンダー・トラブル』を読んだことがない人でも普通に読める本になっているので、もちろんそういう人にも推薦したい。

 他に読みたかったことがあるとすれば、欲を言えば、やはり今このタイミングで本が出るのだから、バトラーがユダヤ人としてパレスチナ連帯を表明していることも書いて欲しかった(なお、バトラーがさまざまな社会運動に連帯して闘っているアクティヴィストであること自体は、本書でも触れられている)。それは、この本のタイトルが「『ジェンダー・トラブル』入門」ではなく、「バトラー入門」と銘打たれているから、である。また、『ジェンダー・トラブル』とパレスチナ連帯が地続きのものであると私は考えているからでもある。

------(追記 2024/10/7)------

 この点について改めて考えてみたが、藤高さんの本では、『ジェンダー・トラブル』はバトラー自身が抱えていたジェンダー・トラブルが背景にあるということが書かれていて、これは本当にそうだと思うのだけど、その「取り乱し」をジェンダーの話だけに還元するという説明の仕方自体が、まさに『ジェンダー・トラブル』で反対されていることなのではないか、と思ってしまう面もある(もちろんインタセクショナリティの話は随所で説かれているのだが、「バトラーの「ジェンダー・トラブル」が『ジェンダー・トラブル』の背後にある」という説明しかなされていないことは確か)。

 『ジェンダー・トラブル』の背景には、バトラーがユダヤ人であること、そしてパレスチナ侵攻に反対していること、というのはとても大きな問題として関係していると私は感じる(当時からバトラーが言語化していたわけではないんだろうけど)。『分かれ道 ―ユダヤ性とシオニズム批判―』があるのだし、(そして今のこの悲惨な状況を考えても、)やっぱりここは触れてほしかったと思う。

------(追記 2024/10/15)------

 三日前、藤高和輝さんと高島鈴さんのトークショー(@ジュンク堂池袋店)に行って来た。そこで藤高さんの「他者とともにあるために―ジュディス・バトラーの責任論」という論考があり、バトラーのユダヤ性の話が展開されていると教えていただいた。これもぜひ読んでみたい→福音と世界2020年9月号(特集=責任という旅路) | 新教出版社 since 1944

 ちなみにトークショーの他の話も面白くて、読んでみたい本がいくつかメモできた。また読んだらここに感想を書いていく。

------(追記終わり)------

 

 以下、私自身の小さな発見を好き勝手にメモしただけのものを付しておく。

このように、バトラーの『ジェンダー・トラブル』は「ジェンダーを増やすこと」を肯定するものだけど、それは別の言い方をすれば、すでに存在している「たくさんのジェンダー」が「不自然」や「理解不能」とみなされ、社会的に承認されていない現状の「理解可能性」の規範的な枠組みを批判的に解体しつつ、それらのジェンダーが社会的にその「理解可能性」を拡張する試みだったとも言える。(p.167)

 この話を、社会的に承認されるジェンダーが固定化・規範化(特に二元化)した結果、本来そこにある豊かな差異が認識不可能なものになってしまう、という方向で理解すると、江原由美子の「『差別の論理』とその批判―『差異』は『差別』の根拠ではない」とも重なるところが多いと気が付く(先週までこのブログで紹介した)。江原のこの論文と『ジェンダー・トラブル』を読み比べると、江原論文は確かにバトラー以前だということには気が付きながらも、しかし江原の論理を突き詰めていけば、実践という意味ではバトラーの議論と重なってくるところがあると思う。(すでにこんな議論は山ほどありそうだが)

インターセクショナリティの核になるアイデアは、植民地主義レイシズム、セクシズム、軍国主義、資本主義的な搾取といった時代ごとの危機に直面した社会運動の文脈内において形成されてきた(p.191、コリンズ/ベルケの言葉の引用)

 社会の中で、また人と人との関係の中においては、どうしても権力というものが生じるものである以上、それに対して闘う運動も必ず起こっていたはずだ、と私は思う。ということは、インターセクショナルな運動や、そうした方向性を志向するアイデアは、歴史の中であちこちに転がっているものなのだろう。ものすごく古い文献(たとえば私の専門である中国古典)でも、そういう解釈の可能性が試みられてもいいのだろうと思った。

いずれにしても、ラウレティスが考えようとしたのは、「私たちのあいだに存在する「様々な差異」」であり、それぞれの差異について互いに真剣に考え、それによってはじめて「連帯」が可能になる、ということだ。……バトラーが『ジェンダー・トラブル』で考えていたのもまさにこの「私たちのあいだに存在する「様々な差異」」であり、「私たち」が連帯するために互いの差異を認め、対話するようなインターセクショナルな視点を持たないといけないということだった。(p.241)

 ここから、差異を認めた上の対話をどう実現するかという話になっていく。バトラーが「対話」について語る一段は、上の記事の(2)で引用している(本書ならp.248)。改めて以下に引用しておく。

 「対話」という概念そのものが文化によってまちまちであり、またこの概念は歴史的に制約も受けてきたので、対話している片方は会話が進行していると安心していても、片方は絶対にそうでないと思っているかもしれない。だから対話の可能性を条件づけ、制限づけている権力関係はどういうものかを、まずはじめに問わなければならない。さもなければ対話モデルは、語っている行為者(エージェント)がみな同じ権力位置にいて、何が「同意」で、何か「統一」かについて全員が同じ前提で話をし、また実際に、「同意」や「統一」こそが達成すべき目標であるというようなリベラル・モデルのなかに、逆戻りしてしまう危険性をもつことになる。

 藤高さんも言っているように(p.247)、対話というものは、「さあ議論しよう!」と宣言すれば始められるものではない。そもそもその場から排除されている人がいないか、その場にはいるが発言しにくさを感じている人がいないか、発言者が自らの特権性を自覚しているか、といった問いかけが必要だ。「それが見失われているものは、場そのもののなかにある権力関係への批判的な視点であり、その力関係によって自らが享受している特権を批判的に問う視点である」と藤高さんは言う(p.247-248)。

 藤高さんは、そういう場づくりを実践しようとしていることも述べている。

私は自分の学生向けのゼミで「誰もが安心して話せる環境を作りたい」という旨のことを話す。私はそのためにいろいろと工夫をするけれども、しかし、「誰もが100%安心して話せる」ことは不可能に近い。なぜなら、その教室というひとつの空間をとっても、そこには様々な権力関係が働いていて、「誰かは安心を覚えるが、別の人はそうではない」という状況は必ず生まれてしまうからだ。(p.249)

 ここの難しさを考えるためには、「「安心」と「安全」は異なる」という考え方を導入すると理解しやすいのではないか、と最近の私は考えている。むろん、導入したとて実現が難しいのは変わりないし、こういうのは「実現した」と言い切った時点で実現していないことを示しているものだが(つまり対等な対話が可能な場、権力の解体された空間は、パフォーマティブにしか有り得ないということだ)。

 誰もが「安全に」その場にいる権利、対話する権利はあり、それは断固として守らなければならない。ただ、「誰もが100%安心して話せる」ことはやはり不可能に近い。なぜか。それは対話を成立させるためには、インターセクショナルな差異を認めることが必要になるが、人は基本的に、差異がある対象には「安心できない」感情を抱くからではないか、と思う。(ここでいう差異というのは、アイデンティティに関するものだけではなくて、主張や路線の違いも含むことになる。)

 もちろん、結果として、その対話内容が参加者に安心感を与えることはあるし、そこにケアの可能性も開かれていると思う。ただ、「みんな安心して話せるように」というアプローチによって、その場を前もって作り出すことは難しいのではないか。そこで、より意識するべきなのは、みんなが安全に議論に参加できるように、「安心できない部分(居心地の悪い部分)をできるだけ均等に配分する」ということを目指すことにあるのではないか、と思う。(とは言いつつ、むろん、安全だけではなく「安心」できる場所がわれわれには必要であるから、ケアし合える空間を作る方法も同時に考えていかないといけない。)

 さて、今述べた、安心と安全の違いという発想と、「居心地の悪さを配分する」という言葉は、私が考えたものではなくて、東大パレスチナ連帯キャンプの「セイファーテント声明文」を読んで受け取ったものである。【※以下、2024/9/23に追記:ちなみに、藤高和輝『ジュディス・バトラー : 生と哲学を賭けた闘い』(以文社、2018)でも、「居心地の悪さを引き受けた対話」の話が出てくる(p.153)。

 もちろん、授業と運動では全然前提が違うので、ここの議論にそのまま当てはまるわけでは全然無い上に、ここではかなり雑な書き方になってしまったので、その声明文を次回の記事で詳しく紹介したい。

(棋客)