達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

江原由美子「『差別の論理』とその批判―『差異』は『差別』の根拠ではない」(1)

 江原由美子「『差別の論理』とその批判―『差異』は『差別』の根拠ではない」『増補 女性解放という思想』ちくま学芸文庫、2021、初出1985)を読んだ。本著は、そもそも「差別」とは何かということを論じる論文で、流れるような緻密な論理展開から、「差別の論理」の本質を明らかにしていく。本論の中で挙げられる具体例は女性差別・障害者差別の事例が多いものの、きわめて普遍的な議論をしているので、他のさまざまな属性に対する差別においても適用できる内容になっている。1985年の論文だが今も色褪せない。「差別」について考えたくても、考えたくなくても、ぜひ読んでほしい好著であると思う。

 今日から三~四回にわたって内容をまとめつつ、私自身が考えたことも交えて書いていく。今回は、p.113-122の内容に対応する。

〈著者の問題意識〉

 性差別を「現実の不平等」として論じる限り、論じられる領域は極めて狭く、解決しない問題が多い。たとえば、形式的に男女の間に「平等」が確立したところで、現在女性が抱えている問題がほとんど解決しないのは明らかである。(例:一部企業で男女の平等の雇用体制が採用されたところで、現在の労働条件のままでは、それを享受できるのは一部の女性にとどまる。)

→遡って、そもそも何が「性差別」なのか?そもそも「差別」とは何か?ということから考察を始めなければならない。

〈差別=現実的な利益・不利益の不平等分配〉なのか?

 「差別」が理解容易なことと思われてきたのは、「差別=現実的な利益・不利益の不平等分配」と考えられてきたからである。つまり、「現代社会は平等な社会」→「不平等は悪」→「それが差別」となる。

 しかし、現代社会には、不平等な分配は現実に山ほどある(例:能力主義に基づく昇進・賃金格差)。これが「差別」として批判されないのは、それが「正当なもの」として社会的に承認されているからである。また、相手に不利益を与える不当な行為が、すべて「差別」とされるわけでもない。(例:攻撃は、暴力や犯罪ではあっても差別ではないという場合がある。)

 ということは、差別とは、不利益を与える行為が、あたかも「正当なもの」であるかのごとく差別者と被差別者に了解される場合に生じることとなる。被差別者は、

  • 「不利益を被っているから」ではなく、
  • 「不利益を被っていることが正当化されないから」、
  • かつ「正当化されない論理が、別の論理によって、あたかも正当なものであるかのごとく通用するから」、

 差別されているということになる。

 ここで被差別者は差別問題に「はめられている」状況に置かれるが、被差別者の怒りはこのこと自体からも生じる。つまり、被差別者の怒りは、直接にはこうした差別の枠組み自体、その根源的な不当性と非対称性に向けられる。(例:「女性に対して男性と同等の処遇をする」という対応を取る場合。この考え方の背景には、「女性が望んでいるものは男性と同じものだろう」という思い込みがあり、その思い込み自体が差別から生まれているという認識がない。そこに対して被差別者は怒りを向ける。)

 ただ、被差別者が怒りを言語化し、差別を告発するためには、不当であることを直感した上で、告発の論理を立てなければならない。しかし、不利益を被る理由が巧妙に正当化された社会の中では、その言語化・意識化の糸口をつかむことすら難しくなってしまう。

〈差別の本質は不平等分配自体ではない〉

 差別が複雑な意識的・言語的装置であることを理解せず、「差別=平等に背くもの」と簡単に考えても、差別はなくならない。つまり、「平等」の価値が前提とされ、現実的な不平等性が指摘されるだけでは、差別を論じることはできない。

 それどころか、差別する側の悪意がすべての「差別」の原因として正当化の論理に用いられ、被差別者に新たな非難を加えるだけになる。差別する側は自明に「良い」、差別される側は自明に「悪い」という構図が繰り返されるだけになる。

〈差別者の意識に焦点を当てる研究〉

 近年の研究では、差別者の側の差別意識・差別心理・アイデンティティ問題に着目するものがある。これらは、差別者の側の不安感や不満感を見いだし、それが被差別者に向けられてスケープゴートを生み出す過程を明らかにする。そして、被差別者の側は、自らのアイデンティティを受容できず、差別者側の価値観を受容し、差別の共犯者となってしまうことも指摘している。

 ただ、この研究でも足りない部分がある。理由は以下である。

  • 差別は、必ずしも差別者による「差別しよう」という意図を必要としない。
  • 被差別者の怒りは、差別者に差別している意識があろうがなかろうが生じうる。
  • 差別の問題が「被差別者を傷つけること」「被差別者が自己の属性を積極的に受容できなくなること」にあるようにとらえられるが、両者が克服されたとしても、差別に対する怒りは消えない。(差別それ自体が不当なのに、それが明確化されないことはさらに不当であるから。)

→むしろ、この被差別者の焦燥感の淵源を明らかにすることが重要ではないか。

 差別は、利益を求める目的がある行為ではなく、病的な異常心理でもない。それは、差別者も被差別者も共有する社会規範や社会意識に根拠を持つものである。差別を意図によって説明することは不適切で、よって倫理的批判で解消することもない。また個人の心理的傾向によって生まれるわけでもない。(以下、次回に続く。)

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(私のコメント)

 以上、非常にロジカルな分析なのだが、その背後に、著者が差別に対して闘い続ける中で経験させられてきたこと(不当な批判を浴びたり、相手に話が全く通じなかったり、一緒に闘っていると思っていた人に刺されたり…)があると分かるのが痛切なところである。

 特に、「差別は「差別しよう」という意図がなくても起こるものだが、被差別者の怒りは、差別者に差別している意識があろうがなかろうが生じる」ということは基本的な認識として知っておきたい。だからこそ、人の差別的言動を指摘する際には苦労するし、また自分で自分の差別的言動に気づくのが難しくなるのである。

 また、以上から、差別を批判するときに、病や疾患に結びつけた言葉を使うことの危険性もよく分かる。そうした言説はそもそも病気への偏見・差別がある時点で論外だが、その上で、まったく差別の解決につながらないということを分かっていなければならない。これと同じ理屈で、差別することを、その差別者の宗教性と結びつけるのがおかしいということも分かる。この言説も宗教差別という点で論外だが、その上で、誰かの差別を批判するときに宗教と結びつけてもまったく差別の解決にはつながらないのである。

 もちろん、医療や宗教にまつわる差別の歴史自体は明らかにされなければならないが、誰かの差別を指摘するときにこれらを持ち出すのは不当である。なぜなら、差別は利益を求めるものではなく、病的な心理状態でもなく、「差別者も被差別者も共有する社会規範や社会意識に根拠を持つもの」だからである。

 

次回→江原由美子「『差別の論理』とその批判―『差異』は『差別』の根拠ではない」(2) - 達而録

(棋客)