達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

「All eyes on Rafah」のAI画像の拡散に思うこと

 いま、「All eyes on Rafah」のAI画像がものすごい勢いでシェアされまくっている。→「All Eyes on Rafah」のAI画像、なぜ世界中に広まったのか - BBCニュース

 すでに、この画像が拡散されていることについて意見はあちこちで交わされているが、私も自分なりの感想を書き記しておきたい。「文言について」と「画像について」の二つの観点にまとめてみた。なお、読めば分かるけれど、これはこの画像をシェアした人を貶めたいとか、そういう目的で書いたものではない。

  • 文言について

 「All eyes on Rafah」(ラファから目をそむけるな、私たちはラファを見ている)や「Hands off Rafah」(ラファに手を出すな)という言葉は、積極的にパレスチナ人を殲滅したいと考える立場(=イスラエル政府の立場)以外なら、ほとんどどんな人でも賛同できるものである。

 どういうことかというと、よほど加害者寄りの考え方をする人、つまり「宗教対立だからどっちもどっちだね」「憎しみの連鎖が起きてますね」「ハマスはテロリストであり制裁が必要でイスラエル政府の攻撃は正しい」といった主張をする人であっても、「イスラエル政府が、避難のための安全地帯としてラファを指定し、そこに逃げるようパレスチナ市民に呼び掛けたのに、そのラファを自ら攻撃する」ことの酷さは批判できる。そして、これが明らかに国際法に違反していることを指摘したり、これを止められない国際社会に怒りを持つことも誰でも当たり前にできることだ。

 実際、だからこそ、これまでイスラエル政府を支持してきたアメリカ政府などにおいても、ラファへの侵攻については反発が大きい。

 また、デモの場で「ラファに手を出すな」という標語が採用されたこともある。私が参加したのは新宿で行われた最大級のデモで、これには約2000人が集まった。示威行為であるデモにおいては、たくさんの人を集めるということが大切な要素の一つである。前提として、現実問題として緊急度の高いラファの現状をまず止めることを訴えたいという事実がある上で、人を集めるために「できるだけ連帯の幅を広く取る」ことが重要だという判断から、このデモでは「ラファに手を出すな」という言葉を採用したのだと思う。

 

 ただ、「加害者寄りの立場でも賛同できる」ということは、その文言に、加害者の正当化に繋がりかねない面があるということも指摘しなければならない。

 なぜかというと、そもそもの問題の根幹は、「イスラエルがラファを攻撃すること」ではないからだ。パレスチナ人の土地であった場所に対して、「ユダヤ人国家」を作ることを目的に、外部から入植し、土地を奪い、資源を奪い、人を殺し、壁を作ったこと。欧米諸国がこれと結託し、それを国際社会が許したこと。そこに金儲けのシステムを作り上げたこと。私たちの日常生活が、その金儲けの富の上に成り立っていること。そして、こうした状況に対する必死の抵抗には「テロリスト」の烙印を押し、正義の名の下に虐殺を続けていること。これこそが問題にすべきことであって、その問題を解決しなければ、今後も同じことが繰り返されてゆくだろう。

 むろん、「ラファに手を出すのはさすがにおかしい」というあなたの感覚は、何も間違っていない。現実にラファへの攻撃が行われてしまった今、まず「All eyes on Rafah」と叫び、その攻撃を止めさせることは絶対に必要なことだ。

 ただ、それだけだと、じゃあイスラエルがラファへの攻撃を停止し、停戦に合意すれば、問題は解決なんですね、というようにも捉えかねられない。そこからもう一歩進んで、じゃあなぜこういうことが起こっているのか、なぜ止められないのか、ということを深く考えなければならない。その先には、たとえばイスラエルという国家を解体することであったり、植民地支配と虐殺から富を得た自分の人生を知ることであったり、また私がまだ知らない不当な収奪と暴力の歴史を学ぶことであったり、そういう実践が待っていると思う。

 

  • 画像について

 もう一つ考えたのは、こざっぱりしたAI画像の「All eyes on Rafah」が爆発的に拡散されるというこの現象についてである。(なお、ここでは別に生成AIの全てを悪者にするつもりはなく、今回のこの現象の嫌な感じを伝えるために書いている。)

 まず、よく指摘されていることは、ラファで起こっている現実を伝える写真が山ほどあるにも拘わらず、現実には存在しないAI画像の方が拡散されることの違和感である。それは結局、現実として存在する「ラファ」から「目をそらして」いるのではないか、と指摘されても仕方がない。

 これに対しては、現実の写真は残酷過ぎてシェアできない・人にショックを与えるかもしれない・子供も見るかもしれないという理由から、現場の写真はシェアできないが、こざっぱりしたAI画像ならシェアしやすいのでは、と意見する人も見たことがある。確かに、それは拡散された要因の一つにはあるのかもしれないが、子供にも見せられるようなもので現実を伝える現地の写真はいくらでもあるわけで、じゃあなぜそういう画像が拡散されないんだろう、という違和感は拭えない。

 また、イスラエルがフェイク画像を拡散するためにAI画像を利用していた事例があるわけで、その技術をパレスチナ連帯に用いてよいのか、という問題もある。この辺りも敏感になりたいところである。

 

 最も大きな違和感は、そもそも「All eyes on Rafah」や「Hands off Rafah」という標語を掲げるバナーは、これまでにも何度も用いられていて、デモの様子を伝える写真ですでに何度も見たことがある。にも拘わらず、AI画像の「All eyes on Rafah」が拡散されることに対する違和感である。

 こうした現象の背景には、運動の「手作り」感に対する忌避感情があるのではないか、と私は思っている。こぎれいで、さっぱりしたものじゃないとダメで、ごちゃごちゃしたもの、つまり場所や人の文脈が見えるものは、なんとなく拒絶される現代の雰囲気。あなたも感じたことがないだろうか。

 私は、社会運動の本質には、消費すること/消費されることへの抵抗、があると考えている。これは一人でやる運動でも、みんなと一緒にやる運動でも、街頭でやる時も、PCに向かってやる時も、同じことだ。

 消費に抗うことは、その人の文脈・その場所の文脈を大切にすること、向き合うこと、またはそれを批判することから生まれてくるものだ。「All eyes on Rafah」の主張までもが、文脈から切り離された画像だけが取り上げられてやたら拡散されるという現象には、あらゆるものを「消費」する文化の流れがここまで行き着いたのか、とある種の絶望を抱いてしまう。

 

 この現象は、これまで様々な方法でパレスチナ連帯を訴え続けてきた人たちからすると、心を折られる出来事になったと思う。

 むろん、これまで訴え続けた人たちがいたからこそ、「All eyes on Rafah」の文字が力を持ち、これだけ拡散されたということは間違いない。また、何かしらの事情で自分のSNSパレスチナ連帯の表明をすることが難しい人も、これだけ流行った「All eyes on Rafah」のAI画像なら投稿できるから、ここから一歩を踏み出すことができた人もいるとは思う。その意味で、パレスチナ連帯の運動が世界に何らかの変化をもたらしているということは確かだし、誇りを持つべきところである。

 ただ、その変化や動きの行き着く先がここなのだとしたら、たぶん世界は変わらないだろうな、と思う。

 だからこそ、この現象をかき消して、通過点の一つにしてしまうために、これからもパレスチナ連帯を訴え続けなければならないと改めて感じた。

(棋客)