達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

余嘉錫『四庫提要辨證』について

 前回まで、余嘉錫(1884-1956)『四庫提要辨證』という本を読んできました。概説の記事を書いていなかったので、簡単に紹介しておきます。

 

 余嘉錫に関する基本的な情報(年表、目録、交友録、逸話など)は、ウェブサイト「中国近代文献学―余嘉錫の総合的研究」に整理されています。

yujiaxi.wordpress.com

 

 訳本としては、『古書通例:中国文献学入門』(古勝隆一・嘉瀬達男・内山直樹訳注、平凡社、2008)『目録学発微: 中国文献分類法』(古勝隆一・嘉瀬達男・内山直樹訳注、平凡社、2013)の二種が刊行されています。どちらも研究入門書として最適な本です。特に『古書通例』の方は類似の本が少ない印象で、この本を読まなければ気が付かないことがたくさんあると思います。

 うち、『古書通例』の内山直樹氏の解説から、一節を引用しておきます。

 余嘉錫は一八八四年、すなわち清の光緒十年に生まれた。字は季豫。湖南省常徳の人で、その論著にしばしば常徳の古名を用いて「武陵余嘉錫」と自署している。・・・十六歳のとき、張之洞の『書目答問』を目にし、そこに羅列された書物の圧倒的数量に気おされ、足下の支えを失ったかのごとき不安に襲われるが、ついで同じ著者の『輶軒語』を読み、『四庫全書総目提要』という「良師」の存在を知るに及んで、一転思わず雀躍する。翌年、父が公務で長沙に赴いたのにともない、念願の『四庫提要』を買い与えられた際の喜びは、余氏自身の手になる『四庫提要弁証』序録に生き生きと描かれている。それとともに、これが余氏畢生の大著『四庫提要弁証』二十四巻の出発点となった。(p.345-346)

 『四庫提要弁証』の執筆は、文字通り余氏の生涯をかけた研究です。前回まで紹介してきたように、その考証を理解するのはなかなか骨ではありますが、読み進めれば必ず得るところがあるはずです。

 ちなみに、今回用いた『四庫提要辨證』は私が最近購入した本です。中華書局四冊本で3500円。これは実質無料ですね。比較的安価で入手できるようですので、皆様もぜひ座右にお備えください。(棋客)

『後漢書』の来歴(2)

 前回の続きです。後漢書』に関して、余嘉錫『四庫提要辨證』の説を見ていきましょう。

『四庫提要辨證』史部一・後漢書一百二十卷

①嘉錫案,『梁書』劉昭傳云「昭集後漢同異,注范曄書,世稱博悉。出爲剡令,卒官。集注後漢一百八十卷。」不言曾注司馬彪志,豈非即在集注范曄書一百八十卷之内乎。然則昭作注之始,即以『續漢書』八志併入范書矣。

②『隋書』經籍志有「後漢書一百二十五卷」注云「范曄本,梁剡令劉昭注」,而昭所注司馬彪志,亦不著錄。考「隋志」,范曄『後漢書』僅九十七卷,而昭所注乃有一百二十五卷,較原書增多二十八卷,是即今本之八志三十卷耳。

③『唐書』范書作九十二卷,別有劉熙注一百二十二卷。章宗源『隋書經籍志考證』卷一引之,以「熙」為「昭」字之訛,謂以「唐志」卷數計之,紀傳九十二卷,合續志三十卷,恰符百二十二卷之數。其説尤為精核。

④兩唐志又有『後漢書』五十八卷,劉昭補注。姚振宗『隋志考證』卷十一云:「五十八卷者,似即所注司馬八志。百二十二卷者,為所注范氏紀傳。兩書合計正合本傳一百八十卷之數。其卷數分合,不可知已。」其説雖與章氏異,然無論如何算法,皆可以證明劉昭補注范書之中,確已將司馬八志併入其内,固無以異也。

 ここは、范曄『後漢書』の本紀・列傳と、司馬彪『續漢書』の志がいつ合併されたのか、またそれと劉昭注・李賢注の関係はどうなっているのか、ということを考察するところです。ここを読むためには、歷代目録を一覧で見る必要があるので、下に掲げておきます。同じ記号が同じ本に対応しています。

・『隋書』經籍志
○續漢書 八十三巻 晉秘書監司馬彪撰
後漢書 九十七巻 宋太子詹事范曄撰
後漢書 一百二十五巻 范曄本 梁剡令劉昭注
後漢書讚論 四巻 范曄撰

・『舊唐書』藝文志
○後(ママ)漢書 八十三巻 司馬彪撰
後漢書 九十二巻 范曄撰 
後漢書論贊 五巻 范曄撰
後漢書 五十八巻 劉昭補注
後漢書 一百巻 皇太子賢注

・『新唐書』藝文志
○司馬彪續漢書 八十三巻 又錄一巻
●范曄後漢書 九十二巻
□論贊 五巻
△劉煕(ママ)注范曄後漢書 一百二十二巻
△劉昭補注後漢書 五十八巻
▲章懷太子賢注後漢書 一百巻

 ①余氏の主張は、『梁書』劉昭傳には「范曄書に注した」としか書かれておらず、「司馬彪志に注した」という記述はない(が、実際には劉昭は司馬彪志の部分にも注している)ことから、この時既に、『續漢書』の八志の部分が范曄『後漢書』に合併されていたとするもの。以下、歷代目録からこの説を補強していくわけです。

 ②まずは『隋書』經籍志から。范曄後漢書が「九十七巻」、范曄本劉昭注が「一百二十五巻」とあり、この量の差は劉昭注が司馬彪志を含むことによる差であるとします。(両者の差は二十八卷。現行本では「志」は三十卷であり、大体合う。)

 ③次は新唐書』藝文志から。こちらは范曄後漢書が「九十二卷」、劉熙注が「一百二十二卷」としています。ここで、章宗源の説を引き、1.「熙」は「昭」の誤字であること、2.九十二卷(紀・傳)+三十卷(志)で百二十二卷となり計算が合うことを指摘します。

 ④最後に、舊唐志・新唐志に「後漢書五十八卷、劉昭補注」とあるのが気になるところです。これについては、姚振宗が「司馬彪志の注釈部分が五十八卷で、范曄紀傳の注釈部分が百二十二卷、合計すると一百八十卷(『梁書』劉昭傳と同じ)となる」とする説を引いています。

 ③の章説と④の姚説は噛み合っていないのですが、どちらの説を採るにせよ、司馬彪志が早くから范曄紀傳と合併されていたと主張する上では変わりないということになります。

⑤以事理度之,蓋自章懷注既行之後,人之言後漢事者,爭用其書,而諸家之説盡廢,昭注浸以不顯。然章懷只注范書紀傳,典章制度無可考詳,讀者遂用昭原例,兼習昭所注續志,以補其闕。故杜佑『通典』述科舉之制,以『後漢書』『續漢志』連類而舉,而『通志』選舉略亦言唐以『後漢書』及劉昭所注志為一史,蓋由於此。

⑥至宋時,昭所注范書紀傳遂佚,而志則籍此倖存,孫奭遂建議以昭所注志與范書合為一編。蓋以前昭所注志與章懷所注紀傳,各為一書,至是始合。

 ここは①~④で出た結論から、更に推論を加える部分です。要約すると以下のような具合。

 ⑤唐に李賢注が出て以来、基本的にこれが使われることになり、劉昭注は徐々に顧みられなくなった。しかし、李賢は范曄の紀傳部分にしか注しておらず、典章制度には弱かった。そこで、読者は劉昭注の司馬彪志を合わせて読み、その闕を補った。よって、『通典』や『通志』が科挙の制度を議論するときに『後漢書』と『續漢書』の志の部分を同類に用いている。

 ⑥このような事情から、宋代に入って、劉昭注の范曄紀傳の部分は失われたものの、劉昭注の司馬彪志の部分は残っていた。そこで、孫奭の建議によって、「李賢注范曄『後漢書』紀傳」と「劉昭注司馬彪『續漢書』志」が一書にまとめられることとなった。この両者が一書になったのは、この時が最初である。

⑦若夫司馬彪志之與范書,則當劉昭作注之時,合併固已久矣。『提要』泥於『書錄解題』之言,以為二書至孫奭始合為一編,唐以前八志未嘗合併,是知其一,未知其二也。

⑧王鳴盛『十七史商榷』雖知劉昭用續志補入,而又謂章懷于志仍用昭注為避難就易,是蓋以為章懷作注時,已用所注續漢書志合為一書,而未嘗考之『書錄解題』。

  さて、余氏が『提要』のどこを批判したいのか、お分かりいただけたでしょうか?

 ⑦『提要』は、「司馬彪志」と「范曄紀傳」の合併を、北宋の孫奭の時としていました。しかし、余氏に言わせれば、北宋の孫奭の建議は「劉昭注司馬彪志」と「李賢注范曄紀傳」の合併であるに過ぎません。本体である「司馬彪志」と「范曄紀傳」の合併自体は、劉昭が注釈を附した時(またはそれ以前)からあったはずだ、とするわけです。

 ⑧『十七史商榷』は、逆に李賢の時に既に劉昭注司馬彪志を合わせて一書にしたと考えているようですが、この説は今度は『直齋書錄解題』の記述に抵触するとして批判します。

⑨惟錢大昕『養新錄』卷六曰:「劉昭注後漢志三十卷,本自單行,與章懷太子所注范史九十卷各別。其併於范史,實始於宋乾興元年,蓋因孫奭之請。昭本注范史紀傳,又取司馬氏續漢志兼注之,以補蔚宗之闕。厥後章懷太子別注范史,而劉注遂廢。惟志三十卷,則章懷以非范氏書,故注不及焉。而司馬劉二家之書,幸得傳留至今,與范史並列學官。」其於范史與司馬志之分合,可謂明辨以晳矣。章氏、姚氏之考「隋志」,亦幸得錢氏導夫先路耳。

  ⑨最後に明晰な説として、錢大昕『十駕齋養新錄』を引いています。確かに、非常に分かりやすく整理された説明ですね。

 

 如何でしょうか? 正史の記述、歷代目録、近人の研究を幅広く見渡して明晰な整理を与えており、現代でも参照価値が非常に高いものであることがよく分かります。

 なお、劉昭注については、小林岳「劉昭の『後漢書』注について:『集注後漢』の内容をめぐって」という論文があり、ここの内容と関連する話題が出ていますので、合わせて参考にして下さい。(ただ、余氏の議論は出てきません。)

 

【2021/02/17追記】

 『日本国見在書目録』を見ていて、こんな発見をしました。

  とすると、北宋以前から、両書はセットになっていたのかもしれません。

(棋客)

『後漢書』の来歴(1)

 今回は、余嘉錫『四庫提要辨證』史部一の後漢書の条を読んでみようと思います。余嘉錫に導かれながら、『後漢書』の複雑な来歴を整理してみようという算段です。

 『四庫提要辨證』は、『四庫全書総目提要(四庫提要)』の各条に対して補訂を加えたものですから、『辨證』を読むためには『提要』の内容を把握しておかなければなりません。

 というわけで、まずは『四庫提要』に載っている『後漢書』の解説を見ることから始めていきましょう。『四庫提要』は、四庫全書を作った際、その各本に対して付けられた概要を集めて一つにしたもので、知らない本が出てきたらまずこれを見よ、という本ですね。

 

 後漢書はいわゆる「四史」の一つで、『史記』『漢書』『三国志』と並び高い評価が与えられていますが、その来歴には複雑なところがあります。

 現行本の『後漢書』は、本紀十二卷・列傳八十八卷・志三十卷の計一百三十卷から成っています。このうち「本紀」と「列傳」は、南朝宋の范曄(字は蔚宗)の作、「志」の部分は西晉の司馬彪(字は紹統)の『續漢書』から抜き取って補われたものです。この辺りは常識的な事柄でしょうか。

 范曄は謀反の咎で処刑された人物ですが、これについては最近復刊された吉川忠夫『侯景の乱始末記』の「史家范曄の謀反」に活写されていますので是非読んでみてください。司馬彪も癖のある学者でよく名前を見かけますが、専論などあるのでしょうか。

 

 さて、この『後漢書』に対する注釈としては、まず梁の劉昭が作ったものと、唐の李賢(章懷太子)が作ったものが残っています。現行本では、本紀と列傳は李賢注、志は劉昭注というハイブリッドになっています。

 

 ここまで確認したところで、まずは『四庫提要』を順番に確認していきましょう。(番号は筆者が附す)

『四庫提要』史部・後漢書・一百二十卷・内府刊本

①『後漢書』本紀十卷,列傳八十卷。宋范蔚宗撰,唐章懷太子賢注。蔚宗事蹟具『宋書』本傳,賢事蹟具『唐書』本傳。

②考「隋志」載范書九十七卷,新舊『唐書』則作九十二卷,互有不同。惟「宋志」作九十卷,與今本合。然此書歷代相傳,無所亡佚。考「舊唐志」又載章懷太子注『後漢書』一百卷。今本九十卷,中分子卷者凡十。是章懷作注之時,始併爲九十卷,以就成數。「唐志」析其子卷數之,故云一百。「宋志」合其子卷數之,故仍九十,其實一也。

 ①は、まず范曄の手になる部分についての基本情報を示しています。

 ②は、歷代の范曄『後漢書』の巻数が異なる点について、整理を与えています。(歷代の正史の目録が『後漢書』をどう扱っているかについては、次回整理して示します。)

 ここに出てくる「子巻」という語については、先日古勝先生が解説してくださいました。

 以上が基本的な情報。『提要』の体例は、まず著者の基本的な情報や巻数について述べるようになっています。

③又隋唐志均別有「蔚宗後漢書論贊五卷」,宋志始不著錄。疑唐以前論贊,與本書別行,亦宋人散入書内。然『史通』論贊篇曰:「馬遷自序傳後,歷寫諸篇,各敍其意。旣而班固變爲詩體,號之曰述。蔚宗改彼述名,呼之以贊。固之總述,合在一篇。使其條貫有序。蔚宗後書,乃各附本事,書於卷末。篇目相離,斷絕失序。夫每卷立論,其煩已多,而嗣論以贊,爲黷彌甚。亦猶文士製碑,序終而續以銘曰:釋氏演法,義盡而宣以偈言云云。」則唐代范書論贊,已綴卷末矣。史志別出一目,所未詳也。

 ③は范曄の『後漢書論贊』という書物について言及します。現行本の『後漢書』では、各列傳の最後に贊が附されており、贊が別行していたようには見えないため、疑問が生じたのでしょう。ここでは、『史通』の記述から、唐代には既に巻末に附されていたはずであり、目録で范曄論贊が別に立てられてある理由は不明としています。

④范撰是書,以志屬謝瞻,范敗後,瞻悉蠟以覆車,遂無傳本。今本八志凡三十卷,別題梁剡令劉昭注。據陳振孫『書錄解題』,乃宋乾興初判國子監孫奭建議校勘,以昭所注司馬彪「續漢書志」與范書合爲一編。

⑤案「隋志」載「司馬彪續漢書八十三卷」,『唐書』亦同。「宋志」惟載「劉昭補注後漢志三十卷」,而彪書不著錄。是至宋僅存其志,故移以補『後漢書』之闕。其不曰「續漢志」而曰「後漢志」,是已併入范書之稱矣。

⑥或謂「酈道元『水經注』嘗引司馬彪州郡志,疑其先已別行」,又謂「杜佑『通典』述科擧之制,以『後漢書』『續漢志』連類而擧,疑唐以前已併八志入范書」,似未確也。

 ④で、現行本の「志」に関する考察に移ります。冒頭は、『後漢書』皇后紀・李賢注引沈約謝儼傳の「范曄所撰十志,一皆託儼。搜撰垂畢,遇曄敗,悉蠟以覆車。宋文帝令丹陽尹徐湛之就儼尋求,已不復得,一代以為恨。其志今闕。」に拠ります。これは「謝儼」の話ですから、『提要』が「謝瞻」に作るのは誤りでしょうか。(ちなみに、余氏はこの誤りには特に言及していません。)

 ちなみに、謝儼と范曄は一緒に『後漢書』を執筆していたようで、同じく李賢注引沈約宋書(班彪列傳)に「初,謝儼作此贊,云『裁成典墳』,以示范曄,曄改為『帝墳』。」という記述があります。

 なお、ここで挙げた二条はどちらも現行本『宋書』には残っていないようです。現行本『宋書』が後の補亡を経たもので旧本と異なる点が多いということについては、『辨證』の『宋書』の項目で余氏が言及していますので、併せて参照にしてください。

 

 さて、いずれにせよ、范曄『後漢書』の「志」が欠けていた代わりに、司馬彪『續漢書』の「志」三十卷が採用された訳です。これと范曄『後漢書』が一書になった時期については、『直齋書錄解題』の記述から、北宋孫奭によるとしています。(※次回、余氏によって反論されるのはこの辺りの話です。上の引用の下線部。)

 

 そして⑤で、司馬彪『續漢書』は唐代まで残っていたものの、宋代には志の部分しか残っておらず、これが范曄『後漢書』の闕を補うために合併されたとしています。

 ⑥は、④~⑤に対する反論の一つで、1.北魏の酈道元が既に司馬彪「州郡志」を引くため、司馬彪の「志」は(『續漢書』から離れて)古くから別行していたのではないか、2.唐代の杜佑が既に両書を続けて引いているから、范曄の本紀・列傳と司馬彪の志は唐代に既に合わさっていたのではないか、という二つの根拠を挙げています。『提要』は、この説については「似未確也」として退けています。

 なお、⑥の「或謂」の説は、四庫提要史部の草稿を作った邵晋涵の説です。『南江詩文鈔』の「後漢書提要」で確認することができます。

⑦自八志合併之後,諸書徵引但題「後漢書某志」,儒者或不知爲司馬彪書。故何焯『義門讀書記』曰:「八志,司馬紹統之作。(案,紹統,彪之字也。)本漢末諸儒所傳,而述於晉初,劉昭注補,別有總敍。緣諸本或失載劉敍,故孫北海『藤陰剳記』亦誤出蔚宗志律曆之文云云」。考洪邁『容齋隨筆』已誤以八志爲范書,則其誤不自孫承澤始。今於此三十卷,並題司馬彪名,庶以祛流俗之譌焉。

 ⑦ここは、「志」の部分が司馬彪の手になることを知らない学者が多いことを述べています。孫北海(孫承澤)は明末清初の人。

 

 以上が『四庫提要』の内容です。次回、これに対する余嘉錫の補訂をご紹介いたします。

 

(棋客)

「禜祭」について(4)

 禜祭について、第四回です。第三回はこちら。

 孫詒讓『周禮正義』黨正に引かれる金鶚の説は、もと金鶚『求古録禮説』卷六の「禜祭考」に載せられているものです。

 これは、その名の通り「禜祭」の専論です。「最初にこれを読みなさい」と言われそうですが、私は『周禮正義』の該当箇所を読み、DBで検索してようやく気が付きました。勘を働かせて礼学の書を斜めに見て探し、こういった論考を最初にピンポイントで見つけることができるようになる日が、果たしてやってくるのでしょうか?(尤も、これを見れば万事解決、というわけでもありませんが。)

 金鶚は、「禜祭」について論点を分けて整理しています。順番に、簡単な要約を付けておきます。

金鶚『求古録禮説』巻六・禜祭考(皇清經解續編・巻六百六十三)

 『説文』云「禜、設綿蕝為營、以禳風雨雪霜水旱癘疫于日月星辰山川也。」案、左昭元年傳曰「山川之神、則水旱癘疫之災、于是乎禜之。日月星辰之神、則雪霜風雨之不時、于是乎禜之。」許君蓋據此文。

 ①然『周官』「大祝掌六祈、以同鬼神示、三曰禬、四曰禜。」禜與禬別。女祝職云「掌以時招梗禬禳之事、以除疾殃。」鄭注云「除災害曰禬、禬猶刮去也。」(禬刮聲相近、故以刮訓之。)『説文』云「禬、會福祭也。」(从示。會聲。諧聲兼會意也。)謂除去疾殃所以會福也。癘疫即疾殃、是禬之祭主於癘疫、可知禜之祭主于水旱。故祭法云「雩宗祭水旱。」鄭謂「宗、當為禜也。」雪霜風雨之不時、為水旱所由致、義與水旱相因也。

 ②第禬禜二祭相似。鄭注大祝云「禬禜、告之以時有災變也。」是禬禜一類、故禳癘疫亦通謂之禜也。

①「禜祭」と「禬祭」の区別について。
 「禜祭」は主に水害・旱害に対して行われるのもの、「禬祭」は主に疫病の流行に対して行われるもの(『周礼』女祝・鄭注、『説文』)。

②但し、「禜祭」と「禬祭」は共通する点もあり(『周礼』大祝・鄭注)、疫病に対する祈祷が「禜」に通じることもある。

 ③禜之祭、雖有日月星辰與山川二者、而山川較多。楚語曰「諸侯祀天地三辰及其土之山川。」韋昭注云「此謂二王後也。非二王後、祭分野星山川而已。」然則禜于日月星辰者、惟天子有之、非天子、則禜於山川。黨正職云「春秋祭禜。」是禜之祭、達於大夫、可知禜於山川者多也。

 ④禜祭亦及社稷。大祝職曰「國有大故天烖、彌祀社稷禱祠。」鄭注「天烖、疫癘水旱也。」是禜及社稷矣。『左傳』第言山川而不及社稷、以臺駘為汾神故也。漢儒泥左氏之文、遂不及社稷、實為闕略。

 ③「禜祭」には「日月星辰」に祈祷するものと「山川」に祈祷するものの二者があるが、「山川」の方が多い。日月星辰に禜するのは天子のみが行うもの(『国語』楚語・韋昭注)。また、『周礼』黨正「春秋祭禜」は、禜祭が大夫まで及んでいたことを示しており、山川の禜祭が多いことが分かる。

 ④「禜祭」には、社稷(土地・穀物の神)に祈祷するものもある。『周礼』大祝「國有大故天烖、彌祀社稷禱祠。」(鄭注によれば、「天烖」は「疫癘、水旱」のこと)の例は、これを示している。『左伝』が社稷の禜の話をしないのは、「臺駘」を汾神としているから。漢儒は『左伝』しか見なかったため、社稷の禜についての議論が欠けている。

⑤且禜之時亦有二。
 無定時者、遇災而行、所以禳水旱、則山川社稷並祭。
 有定時者、于春秋二仲行之、春祈雨暘之時、若秋則報之、與祭社稷之義略同。(社祭土神、稷祭穀神、所以祈百穀之豊稔。禜祭山川、天子幷祭日月星辰、所以祈雨暘時、若亦即所以祈百穀之豐。故曰其義略同也。)其祭則主山川而不及社稷、以社稷已自有春秋之祭也。

 ⑥州長言「春秋祭社」、黨正言「春秋祭禜」、社有定時、則禜亦有定時可知。(社稷實尊于山川、故州長祭社、黨正則祭禜。)如雩固因旱而祭、亦有不因旱而祭、其祭有定時者、月令仲夏大雩帝是也。(⑦禜在仲春、故雩在仲夏。天子禜祭星辰以及山川、大雩則祭天而日月星辰社稷山川百神皆祀。禜小而雩大也。以盛陽之時待雨尤急、故特大其祭也。諸侯禜不得祭星辰、雩亦不得祭天。蓋禜于山川、而雩則社稷山川並舉、亦禜小而雩大也。)

⑤「禜祭」を行う時期には、二種類ある。
 一つは、不定期のもので、災害の起った時に、山川・社稷に祈祷するものである。
 一つは、定期(仲春と仲秋)に行われる。春には雨の順なることを祈り、秋には順であったことを報いる。社稷の祭と意義は殆ど同じで、この場合の禜祭は山川のみを対象とする。

⑥定期に行われる「禜祭」について。
 社稷の祭に定期の祭があるのと同様に、禜祭にもある。これは、雩祭(雨乞いの祭)には旱害に際して(不定期に)行われるものがある一方、旱害によらず定期に行われるものがある(『礼記』月令、仲夏の「大雩帝」)のと同じである。

⑦「禜祭」と「雩祭」について。
 禜は仲春、雩は仲夏に行われる。天子の禜では、星辰・山川を祀る。「大雩」の祭では天を祀るから、日月・星辰・社稷・山川・百神を全て祀る。よって、「雩祭」は「禜祭」より重大なものである。

 ⑧又祭法曰「幽宗祭星也。」鄭注云「宗當為禜」此但言星而不及日月。蓋天子春秋幽禜、祭星辰司中司命飌師雨師、是為六宗。(六宗以鄭君説為確、此本鄭説也。)故其字亦作「宗」。總之皆星也。(星為五緯、辰為二十八宿、司中司命、皆文昌星。飌師、箕星。雨師、畢星。要之皆星也。)不及日月者、以日月已自有春秋之祭也。此有定時者也。

 ⑨祭法又曰「雩禜、祭水旱也。」天子雩禜、日月星辰以及社稷山川、無不畢祭、有似于雩、故曰雩禜。(知雩禜非二祭者、以上文所言皆一祭、此不應獨異也。且雩為旱而祭、而禜非專為水而祭、兼祭水旱則雩禜為一祭明矣。)此無定時者也。祭法所言泰壇、泰折、王宮、夜明諸祭皆天子之禮、則幽禜雩禜亦皆天子之禮、可知矣。

⑧天子の「禜祭」は、星辰に祈祷するが、日月には祈祷しない(『礼記』祭法・鄭注)。日月には別に春秋の祭があるからである。なお、これは定期の禜祭の話である。

⑨『礼記』祭法に「雩禜」とあるが、これは天子の不定期の禜祭が、日月・星辰・社稷・山川など全てを祀るので雩祭に似たところがあり、ここから「雩禜」と呼ぶのだ。尚、『礼記』祭法の文脈から、「雩禜」が二つの異なる祭であるとは考えられない。また、『礼記』祭法で言われているのは全て天子の礼だから、ここの「雩禜」も天子の礼の話のはずである。

 ⑨雩大于禜、禜大于酺。雩祭天帝、而禜祭日月星辰。雩亦祭地(雲漢詩云「上下奠瘗」、是雩亦祭地也。)而禜祭社稷山川。禜分舉于春秋、而雩特行于仲夏。是雩大而禜小也。黨正為下大夫而祭禜、族師為上士而祭酺。是禜大而酺小也。禜與雩異者、雩專主于求雨禳旱、而禜則兼雨暘水旱幷及疾疫也。禜與酺異者、酺主于人物災害、而禜則主于雨暘水旱也。

⑨「雩」と「禜」と「酺」の関係について。
 「雩」は「禜」より重大な祭祀である。雩は「天帝と地」、禜は「日月星辰と社稷山川」を祀ることと、雩は「仲夏」に一回行われるが、禜は「春と秋」に分けられることから、それが分かる。
 両者の違いは、「雩」は雨乞いをして旱害から免れるための祈祷に特化するが、「禜」は水害・旱害に加え疾病から免れることも祈祷する点にある。
 「禜」は「酺」より重大な祭祀である。『周禮』黨正から下大夫のために禜を行うことが分かり、『周禮』族師から上士のために酺を行うことが分かるからである。
 両者の違いは、「禜」は水害・旱害を主とするが、「酺」は人災に焦点が当てられることである。

⑩禜之祭有壇。
 鄭注黨正云「禜謂雩禜水旱之神、蓋亦為壇位如祭社稷云。」(祭法泰壇、泰折、王宮、夜明皆是壇、則幽禜雩禜亦為壇也。)賈逵注左傳謂「禜祭、為營攢用幣、以祈福祥。」杜注從之。孔疏云「營其地、立攢表。攢、聚也。聚草木為祭處。」此與『説文』「設綿蕝為營」同。
 禜字从營省、取營域之義。外為營域、其中則有壇也。

⑩「禜祭」には「壇」を用いる。
 社稷の祭と同様の壇を作る(『周礼』黨正・鄭注)。よって、禜祭の際、中には「壇」があり、その外側には「營域」がある。(「禜」の字は「營」の省略に従う。)

⑪禜祭亦有牲。
 鄭注大祝云「造類禬禜皆有牲、攻説用幣而已。」雲漢詩言「靡愛斯牲。」此禜用牲之確證。杜注但言「用幣」、蓋據左氏言「天災有幣無牲也。」不知天災惟日月食不用牲、若水旱則無不用牲者。『春秋』書「大水鼓用牲于社于門」蓋當鼓于朝、不當鼓于社、當用牲于社、不當用牲于門。故書以譏之、非謂不可用牲也。左氏之言、殆未可據矣。

⑪「禜祭」には「牲」(いけにえの牛)を用いる。
 『周礼』大祝・鄭注、『詩経』雲漢の語から、それが分かる。
 杜預注は幣を用いることしか言わないが、これは『左傳』に「天災有幣無牲也。」とあることによるが、これは天災のうち日食・月食には牲を用いず、水旱には必ず牲を用いることを分かっていないのである。というのも、『春秋』経文に「大水鼓用牲于社于門」とある。これは「朝において鼓すべきなのに社において鼓した」ことと、「社に牲を捧げるべきなのに門に牲を用いた」ことを譏っているのである。

 

 こうしてみると、前回まで紹介した『周禮正義』の説が、概ね金鶚説に則っていることがよく分かります。

 さて、以上の議論を見て、「こじつけだ」「本当にそんな細かい区別があるものか」という印象を受ける方がも多いのではないでしょうか。まことに仰る通り。もともと別々に成立したそれぞれの経書の記述が全て矛盾なく説明されることなど有り得ないはずで、そこを調整しようとするここでの金鶚の議論は、結局、頭の中から生まれた観念的な代物でしかないのでしょう。

 しかし、経書が周代の理想的な礼体系を反映していると想定(思い込む・信頼する・信仰する、といった表現もできますね)し、それらを「こじつけ」て、一つの説明を作り出すことこそが、「経学」という営為そのものなのです。特に、鄭玄の学問はそういう方向の意図に溢れています。

 ということは、こういった経学者の営みを追及したところで、事実の解明の役には立たないし、現代において何の価値もないものではないか、という疑問を持たれるかもしれません。

 しかし、私はそう思いません。むしろ、「経学」が、(現代の我々から)現実離れした観念的な産物であるからこそ魅力的なのではないか、その多様性をそのままに理解して保存することが重要なのではないか、そのように考えています。

(棋客)

「禜祭」について(3)

 「禜祭」について、第三回です。前回はこちら。

 まず、『周禮』鬯人から。鬯人は、祭祀の際に用いる酒やその酒器を掌る官です。前回同様、孫詒譲『周禮正義』を見ていきます。

『周禮』春官・鬯人

〔經〕鬯人掌共秬鬯而飾之。凡祭祀、社壝用大罍、禜門用瓢齎、廟用脩、凡山川四方用蜃、凡祼事用概、凡疈事用散。

〔注〕禜、謂營酇所祭。門、國門也。春秋傳曰「日月星辰之神、則雪霜風雨之不時、於是乎禜之。山川之神、則水旱疫癘之不時、於是乎禜之。」魯莊二十五年秋、大水、鼓用牲于門。故書「瓢」作「剽」。鄭司農讀剽為瓢。杜子春讀齎為粢。瓢、謂瓠蠡也。粢、盛也。玄謂齎讀為齊、取甘瓠、割去柢、以齊為尊。

 「禜」は、國門で行われ(『周禮正義』は、『初學記』引『三禮義宗』に「禜、止雨之祭、每禜於城門。」とあることも指摘しています)、瓢齎(鄭玄によれば、瓜を割って祭器にしたもの?)を用いる、とあります。なお、鄭玄によれば、「飾之」は捧げられた酒と酒器を布で囲うことを示すようです。

 鄭玄は「禜、謂營酇所祭。」と言いますが、これがまたよく分からないので孫氏に訊いてみましょう。

孫詒讓『周禮正義』卷三十七・春官・鬯人

 詒讓案、鄭所謂「營酇」、卽賈服杜所謂「營攢」、酇攢字通。樂記云「其治民勞者、其舞行綴遠。其治民逸者、其舞行綴短。」鄭注云「民勞則德薄、酇相去遠、舞人少也。民逸則德盛、酇相去近、舞人多也。」又奔喪「喪位」注云「位、有酇列之處。」酇又通作「纂」。『史記』叔孫通傳「為緜蕞野外習之」、『集解』引如淳云「蕞謂以翦茅樹地為纂位。春秋傳曰『置茅蕝』也。」『索隠』引纂文云「蕝、今之纂字」。

 (※)是此注云營酇、又即許君所謂「設緜蕝為營」、謂立營兆酇表而祭之。黨正注謂祭禜亦為壇位如社稷、亦是也。『左傳疏』以為「立攢表」得之、其訓攢為「聚艸木」、則非。

 やはり『左傳』昭公元年の「禜」に関しては、鄭玄説と賈逵、服虔、杜預説は同じであったと見て良いようです。

 ここでは、最初に見た典拠が一周回ってまた幾つか出てきています。これも非常によくあることですが、意味を特定しようとするときには困りものです。しかし、ここまで見覚えのない『禮記』樂記の例が出てきているので、当たっておきましょう。

『禮記』樂記

〔經〕故天子之為樂也、以賞諸侯之有德者也。德盛而教尊、五穀時熟、然後賞之以樂。故其治民勞者、其舞行綴遠。其治民逸者、其舞行綴短。

〔鄭注〕民勞則德薄、酇相去遠、舞人少也。民逸則德盛、酇相去近、舞人多也。

〔疏〕「故其治民勞者其舞行綴遠」者、綴謂酇也。遠是舞者外營域行列之處、若諸侯治理於民使民勞苦者、由君德薄、賞之以樂、舞人既少。故其舞人相去行綴遠、謂由人少舞處寬也。(中略)「酇」謂酇聚舞人行位之處、立表酇、以識之。

 この「表酇」は、先に出てきた「攢表」と同じだと思います。この場合は、楽を響かせて舞を踊るときに、各人の位の場所を示す標識、といった意味でしょうか。確かに、分かりやすい例という気がします。

 結局、孫氏は様々な文獻を引用したのち、このように結論づけます。(「※」以下の試訳。)

 是此注云營酇、又即許君所謂「設緜蕝為營」、謂立營兆酇表而祭之。黨正注謂祭禜亦為壇位如社稷、亦是也。『左傳疏』以為「立攢表」得之、其訓攢為「聚艸木」、則非。

 「營酇」は『説文』の「設緜蕝為營(縄を引いて茅束を置き、囲いを作ること)」と同じであり、祭場の囲みと位の順次を示す印を立て、祭るのである。また、『周禮』黨正の鄭注に「禜祭では、“壇位”を作って社稷と同じようにする」と言うのも、このことである。『左傳疏』が「營酇」を「立攢表」とするのは是であるが、「攢」を「聚艸木」とするのは非である。

 肝心の「立營兆酇表而祭之」が訳しにくいのですが、「營兆」と「酇表」を立てる、と見て、「祭場を示す囲み」と「位の尊卑を示す印」を立てる、としておきました。結局は、「祭祀のための場所を整備する」ぐらいの意味なのかもしれません。

 なお、「壇位」については、前回も引用しました。下を参照。

孫詒讓『周禮正義』巻二十二・黨正

〔經〕春秋祭禜、亦如之。

〔注〕禜、謂雩禜水旱之神。蓋亦爲壇位、如祭社稷云。

〔疏〕云「蓋亦爲壇位如祭社稷云」者、鬯人注云「禜、謂營酇所祭。」營酇卽謂壇之營域也。禜與社稷同爲地示、故其壇位略同。社稷壇位、詳大司徒疏。

 ここから、「社稷の壇位」とは何ぞや?ということを調べたければ、今度は『周禮』大司徒を見ると参考になることが分かりますが、一旦ここで切り上げておきましょう。

 さて、先に引用した『周禮正義』黨正には、金鶚『求古録禮説』の説が長大に引用されています。孫説も多くこれに拠っているようで、全体のまとめといった趣がありますので、次回これを紹介します。

(棋客)