達而録

ある中国古典研究者の備忘録。毎週火曜日更新。

「禜祭」について(2)

 「禜祭」について。前回の続きです。

 段注の最後に「『周禮』注引・・・」とありました。ということは、『周禮』に関連する記載があるということです。実際、調べてみると、禜祭の記載は『周禮』の中に数ヶ所あります。

 「経学とは礼学である」というのはよく言われることですが、礼に関する事柄は、まず鄭玄注を確認することになります。これは鄭玄注が歴史的に正しいということではなく、経学の学説の展開が鄭玄説を中心に動いてきたため、その所説を確認することが経学を学ぶ上では通らざるを得ない道である、ということです。

 そしてこれもよく指摘されることですが、鄭玄の礼学体系は基本的には『周礼』を中心に構成されています。実際、鄭玄説を確認する作業を続けていると結局『周礼』に行き着くというのはよくあることです。

 

 では、『左傳疏』でも取り上げられていた『周禮』大祝の項を見てみましょう。「大祝」は神祇を掌る官です。

『周禮』春官・大祝

〔經〕掌六祈、以同鬼神示、一曰類、二曰造、三曰禬、四曰禜、五曰攻、六曰説。

〔鄭注〕祈、嘄也、謂為有災變、號呼告神以求福。天神、人鬼、地祇不和、則六癘作見、故以祈禮同之。故書造作竈、杜子春讀竈為造次之造、書亦或為造、造祭於祖也。

 鄭司農云「類、造、禬、禜、攻、説皆祭名也。類祭于上帝、詩曰『是類是禡』、『爾雅』曰『是類是禡、師祭也。』又曰『乃立冢土、戎醜攸行。』『爾雅』曰『起大事、動大眾、必先有事乎社而後出、謂之宜。』故曰『大師宜于社、造于祖、設軍社、類上帝。』司馬法曰「將用師、乃告于皇天上帝、日月星辰、以禱于后土、四海神祇、山川冢社、乃造于先王、然後冢宰徵師于諸侯曰、某國為不道、征之、以某年某月某日、師至某國。」禜、日月星辰山川之祭也。春秋傳曰『日月星辰之神、則雪霜風雨之不時、於是乎禜之。山川之神、則水旱癘疫之災、於是乎禜之。』

 玄謂類造、加誠肅、求如志。禬禜、告之以時有災變也。攻説、則以辭責之。禜、如日食以朱絲縈社。攻、如其鳴鼓然。董仲舒救日食、祝曰「炤炤大明、瀸滅無光、奈何以陰侵陽、以卑侵尊。」是之謂説也。禬、未聞焉。造類禬禜皆有牲、攻説用幣而已。

 ここには六種の祈祷(類、造、禬、禜、攻、説)が掲げられています。鄭玄によれば、いずれも何か災害や変異があった場合に、福を求めて神に向けて行うもの、とされています。このうちの一つが話題の「禜」です。

 鄭衆によれば、「禜」は「日月星辰山川之祭」であり、先日読んだ『左傳』昭公元年の記事を引いています。つまり、雪霜風雨の不順や、水旱癘疫の災害が発生したときに、それが収まることを祈祷するわけですね。これは『説文』の説と同じ。

 それに対して鄭玄は、「禜」は「如日食以朱絲縈社」(先日引いた『公羊傳』莊公二十五年の記事。日食の際に朱色の絹糸で社を囲むこと。)と述べています。

 

 これがどういう風に噛み合うのか、よく分かりません。『周礼』の経注でよく分からないことがある場合は、まずは賈公彦『周禮疏』や孫詒讓『周禮正義』の意見を聞いてみましょう。ここでは、『周禮正義』を見てみます。(大体、『周禮正義』を見れば賈公彦説も整理して示してくれています。)

孫詒讓『周禮正義』卷四十九・春官・大祝

 云「禜如日食以朱絲縈社」者、賈疏云「案、莊公二十五年六月辛未朔、日有食之、鼓用牲于社。『公羊傳』云「日食則曷為鼓用牲于社。求乎陰之道也。以朱絲縈社、或曰脅之、或曰為闇、恐人犯之、故縈之。」何休云「朱絲縈之、助陽抑陰也。或曰為闇者、社者、土地之主尊也、為日光盡、天闇冥、恐人犯歷之、故縈之。然此説非也。記或傳者、示不欲絶異説爾。先言鼓後言用牲者、明先以尊命責之、後以臣子禮接之、所以為順也。」鄭引『公羊傳』者、欲見「禜」是「縈」之義。」

 、①鄭言此者、亦補先鄭義、謂日月星辰山川之外、又有社稷之禜也。今本『公羊』經注「縈」並作「營」、鄭賈引作「縈」、與『公羊釋文』所載一本同。②『春秋繁露』止雨篇亦云「以朱絲縈社十周。」疑西漢公羊師讀如是。③但鄭此注釋「禜」為「縈」、鬯人「禜門用瓢齎」注云「禜謂營酇所祭」、又釋為「營」者、「禜」「縈」「營」聲義並通、鄭各舉一端為釋、義得兼含也。④又禜有二、有有常時者、黨正「春秋祭禜」是也。有無常時者、遇災而禜日月星辰山川社稷國門、及翦氏之攻禜是也。此禜亦通晐之矣。

 孫氏の論点は色々ありますが、簡単に整理しておきます。

 ①ここで鄭玄が『公羊傳』を引くのは、鄭衆(先鄭)が『左傳』を引いて「日月星辰山川を祭る“禜”」があると述べたので、それに補足し、他に「社稷を祭る“禜”」があることを示すため。(『公羊傳』には「鼓用牲于」「以朱絲縈」とある。)

 ②『春秋繁露』に「以朱絲縈社十周」とあるから、この説は公羊家で受け継がれてきたものではないか、とする。

 ③鄭玄はここで「禜」を「縈」と解釈するが、『周禮』鬯人では「營」と解釈する。「禜」「縈」「營」は音が通じていて、鄭玄はそのうちの一端を挙げて解説したまでであり、それぞれで矛盾する解釈をしているわけではない。

 ④「禜」には二種類有る。★定期的に行われるもの:『周禮』黨正の「春秋祭禜」のこと、★不定期に行われるもの:災害の際に日月・星辰・山川・社稷・國門を祭るもので、『周禮』翦氏の「攻禜」のこと。

 

 とすると、①から、かつての疑問が一つ解けます。問題となった『左傳』の疏を再度掲げておきましょう。

『左傳』昭公元年

〔傳〕由是觀之、則臺駘汾神也。抑此二者、不及君身。山川之神、則水旱癘疫之災、於是乎禜之。

〔杜注〕有水旱之災、則禜祭山川之神若臺駘者。周禮四曰禜祭。為營攅用幣、以祈福祥。

〔疏〕周禮大祝「掌六祈以同鬼・神・示。一曰類、二曰造、三曰檜、四曰禜、五曰攻、六曰説」、鄭衆云「禜日月星辰山川之祭也」、鄭玄云「禜告之以時有災變也。禜如日食以朱絲禜社也」。玄之此言、取公羊為説。莊二十五年『公羊傳』曰「日食以朱絲禜社。或曰脅之、或曰為闇、恐人犯之、故營之」。然社有形質、故可朱絲營繞、日月山川、非可營之物、不得以此解禜也。

 左傳疏では、鄭玄説は「不得以此解禜也。」と言われて否定されています。しかし、ここの鄭玄注は「社稷の禜」の説明をしているところであって、「日月星辰山川の禜」の説明ではありません。この疏の引用の仕方では、鄭衆説と鄭玄説が並列しているようになっていますが、実際には、鄭玄は鄭衆説を認めていて、そこに別の場合を付け加えただけ、ということでした。(孫氏によれば)

 鄭玄が『左傳』昭公元年の「禜」(日月星辰山川の禜)を別で認識していたことは、下に引く『周禮』鬯人の鄭注から明らかです。ここの『左傳疏』は、『周禮』大祝の鄭注でなく、『周禮』鬯人の鄭注を引いておけば余計な議論をしなくて済んだように思いますが、いかがでしょう。

 

 さて、上の『周禮』大祝の項だけでは、具体的なことがまだよく分かりません。そこで、孫氏が関連する記述として引いている『周禮』鬯人や『周禮』黨正を調べることになります。

 ここから、次回に続きます。

(棋客)

「禜祭」について(1)

 以前棚上げにしておいた、「禜祭」について整理してみました。こういうことを調べる時にはどのようにするのか、参考までにご覧ください(あくまで現時点での私の方法ですが)。全四回の記事で、『説文解字注』『周禮正義』『求古録禮説』などを扱いました。

 まず、『説文解字』の段玉裁注で、字義の確認をしておきましょう。(「経学」の調べごとでは、まず段注を手掛かりにするのはなかなか有効です。)

説文解字』一篇 示部・禜

 禜、設緜蕝爲營、以禳風雨、雪霜、水旱、癘疫於日月星辰山川也。从示。从營省聲。一曰禜、衞使災不生。

〔段注〕『史記』『漢書』叔孫通傳皆云「爲緜蕞野外習之。」韋昭云「引繩爲緜、立表爲蕞、蕞卽蕝也。」詳艸部。凡環帀爲營。禜營曡韵。『左氏傳』「子産曰、山川之神、則水旱癘疫之災、於是乎禜之。日月星辰之神、則雪霜風雨之不時、於是乎禜之。」許與鄭司農『周禮』注引皆先日月星辰。與今本不同也。

 よく分からなくても、一つ一つ典拠に当たることが大切です。段注に従って、『史記』『漢書』の叔孫通傳を見ておきます。(『左傳』の例は前の記事で取り上げたところですね。)

史記』叔孫通傳

 遂與所徵三十人西、及上左右為學者與其弟子百餘人為緜蕞野外。

〔集解〕徐廣曰「表位標準。音子外反。」駰案、如淳曰「置設緜索、為習肄處。蕞謂以茅翦樹地為纂位。春秋傳曰『置茅蕝』也」。

〔索隱〕徐音子外反。如淳云「翦茅樹地、為纂位尊卑之次」。蘇林音纂。韋昭云「引繩為緜、立表為蕞。音茲會反」。按、賈逵云「束茅以表位為蕝」。又『纂文』云「蕝、今之『纂』字。包愷音即悅反。又音纂」。

  次に、漢書

漢書』叔孫通傳

 遂與所徵三十人西、及上左右為學者與其弟子百餘人為緜蕞野外。

〔師古注〕應劭曰「立竹及茅索營之、習禮儀其中也。」如淳曰「謂以茅翦樹地為纂位尊卑之次也。春秋傳曰『置茅蕝』。」師古曰「蕞與蕝同、並音子悅反。如説是。」

 歴代の注釈家たちが色々と注を付けているということは、それなりに難読の箇所なのでしょうね。現代人が分からないのも当たり前です。

 賈逵、韋昭、徐廣、顔師古の解釈は恐らく共通していて、「叔孫通は、朝廷の儀式を制定した際、野外に縄を引いたり茅の束で表を立てたりして、各人の尊卑の位に従って位置を示した」ということか。應劭説は「竹や茅で取り囲んで、その中で弟子に礼儀を習わせた」ということ。如淳説は文献によって内容が微妙に違っているのでややこしいですね。下に示しておきました。

〔集解引〕置設緜索、為習肄處。蕞謂以茅翦樹地為纂位。春秋傳曰「置茅蕝」也。

〔師古注引〕謂以茅翦樹地為纂位尊卑之次也。春秋傳曰「置茅蕝」。

〔索隱引〕翦茅樹地、為纂位尊卑之次。

 『集解』が一番古く、如淳説の内容も充実していますが、「為纂位尊卑之次」の部分が異なっています。仮に合わせて読めば、「縄を設置して儀礼を習う場所を作り、茅束を地面に立てて尊卑の順次を示す」といった具合になり、先の二つの解釈を合わせたような感じになります。「纂位」は「位を継ぐ」の意と辞書にはありますが、ここではどういう意味なのでしょう。

 尚、辞書を調べてみると、「緜蕝」「緜蕞」「綿蕝」という熟語はここから派生し「儀式の典章を作る」「礼制を整備する」といった意味で後世使われるようです。

 

 一応、如淳注に出てきている「置茅蕝」の例も掲げておきます。

『國語』晉語八

 昔成王盟諸侯于岐陽、楚為荊蠻、置茅蕝、設望表、與鮮卑守燎、故不與盟。

〔韋昭注〕置、立也。蕝、謂束茅而立之、所以縮酒。望表、謂望祭山川、立木以為表、表其位也。鮮卑、東夷國。燎、庭燎也。

 また韋昭注が出てきてややこしいですが、一旦この辺りで切り上げておきます。

 

 『説文』の場合はあくまで「禜」という祭祀の説明です。ここで挙げられている叔孫通傳や『國語』は、儀礼整備や外交儀式の話なので文脈は異なっています。ただ、「設緜蕝爲營」の解釈は共通している、というのが段注の意図でしょう。

 段注によった『説文』の原文の試訳を掲げておきます。

 禜、設緜蕝爲營、以禳風雨、雪霜、水旱、癘疫於日月星辰山川也。

 「禜」とは、縄を引き茅束を立てて囲いを作り、風雨、雪霜、水害・旱害、疫病から免れるよう、日月、星辰、山川に祈祷することである。

 「縄を引き茅束を立てて囲いを作る」とは結局、祭祀の場所を作り、位の順次を示す印を立てる、ということになります。

 さて、ここから「禜」という祭祀の具体的な方法、意義、種類、時期、『春秋』に該当記事はあるか……といったことを細々と考え出すのが「経学」というものです。ここでは一旦「本当にそのような祭祀が存在したのかどうか」という歴史的事実の探求は棚に上げておいて、経学者たちの間で観念的にはどう理解されてきたのか(とはいえ、彼らにとってはそれが現実そのものであったのだと思いますが)、という方向から考えていきましょう。

 次回に続きます。

(棋客)

溝口雄三『中国の公と私』

 溝口雄三『中国の公と私』(研文出版、1995)を読みました。折角ですので、冒頭部分だけ紹介しておきます。

 この本は、中国(特に宋代以降)における「公」と「私」の概念について、その源流から近代に至る展開を描いたものです。特に、日本における「おおやけ」と「わたくし」の概念との対比を意識しながら書かれており、少し時代を感じるところはありますが、どなたでも興味深く読むことができるのではないでしょうか。

 まず中国の公私の原義だか、詳しくは次節で再述するとして、ここではとりあえず戦国末から後漢にかけての資料の範囲でみてみると、ム(=私)について『韓非子』は自環すなわち自ら囲むの意、『説文解字』では姦邪の意としている。これに対する公は、(一)群として『韓非子』のいわゆる「ムに背く」すなわち囲いこみを開くの意であって、ここから衆人と共同するの共、衆人ともに通ずるの通、さらに私=自環の反義として説文解字では「公は平分なり」としている。一方、(二)群として、これは 『詩経』の用例からの類推だが、共から衆人の共同作業場・祭事場などを示す公宮・公堂、およびそれを支配する族長を公と称し、さらに統一国家成立後は君主や官府など支配機構にまつわる概念になった。(p.3-4)

 氏は、まず中国における「私」「公」の原義について、このように整理しています。

・「私」:「自ら囲む」の意、「姦邪」の意
・「公」:(一)「囲いこみを開く」の意、(二)公宮・公堂、のちに君主や官府など支配機構にまつわる概念

 では、日本の「公」概念は?というのが次の話題です。

 一方、日本の公すなわちおおやけは大家・大宅で標記されるように大きい建物およびその所在地で、 オホヤケの枕詞が物多(ものさは)にとあることから古代的共同体における収穫物や貢納物の格納場所、さらにそれを支配する族長の祭・政上の支配機能をさす語であったと考えられる。律令国家の成立期に公という漢字が、天皇制支配機構に直接的にかかわるミヤケよりは、なお当時すでに古語化しつつあったオホヤケ概念と結びつけられたのは、オホヤケにまつわる古代共同体的な共のイメージが公の字の訓としてよりふさわしいと思われたからであろう。衆人とかかわる世間・表むきのことから、官・朝廷の諸事物に公の字があてられたのは、このおおやけの原義に由来するのであろうが、ただしここで注意されねばならないのは、オホヤケとして受容された公は、前述の(二)群の方にかたよっていて、(一)群の方はほとんど捨象されていたということである。つまり、おおやけの原義にはもともと(一)群の概念とくに通とか平分の部分は含まれていなかった。もともとおおやけは一応は共(軍事・祭事・農事などの共同性)を含みつつもなおその共を包摂する支配機能の方に概念の比重がかかっており、大和朝廷の政治イデオロギー上の要請からもその傾向はむしろ増幅された(平安期には公(おおやけ)は天皇個人を指す語にすらなった)。かつ当時かれらが導入した漢唐の文献は、先秦のそれに比べて、公については(二)群の方が優位であった、などの事情がそこには介在した。

 一見小さな差異だが、中国では(一)群の方は漢唐の間にも生きつづけ、さらに宋代に入ると天理・人欲概念と結びついてより深化し、特に近代に至ると、孫文の公理思想に展開するなど、ほとんど(一)群のみの、すなわち国家や政府を公とする日本の公とはまるで違う言葉のように差異が決定的となる。 ところがその差異が意外と明確にされないままきているので、明清以降の中国の公概念の展開をみるにあたって、そのことをあらかじめ念頭におく必要がある。(p. 4-5)

 ここで、先に挙げた二つの「公」概念のうち、中国では(一)が、日本では(二)が優位であったことが示されています。なお、本書の主眼はあくまで宋代以降の中国ですが、田原嗣郎氏の「日本の公・私」が合わせて収められており、日本における公・私の専論も読むことができます。

 中国における(一)の「公」の具体例を見ておきましょう。

 例えば秦の呂不韋が、「昔、先聖王が天下を治めるには、必ず公を先にした。公ならば天下は平らかであり、平は公より得られる。…天下を得る者は…公であることにより、天下を失するのは必ず偏であることによる。…天下は一人の天下ではなく、天下の天下である。…甘露時雨は一物に私(かたよ)らず、万民の主は一人に阿(かたよ)らない」(『呂氏春秋』貴公*1)と述べるときの公は偏私に対する公平であり、私の自環・姦邪に対する公の通・平分の義がここに生きているのがみられる。また漢代に編纂された『礼記』礼運篇の「大道が行われているとき、天下は公である(天下為公)」云々の有名な「大同」の個所は、 人々が自分の親族だけを大事にするのではなく、よるべなき老人・孤児や廢疾者を相互扶助し、あるいは余った財物や労働力を出し惜しみせず、要するに人々が「必ずしも己れのみに蔵(とりこ)まず」「必ずしも己れのみの為めにしない」、そういう共同互恵の社会を天下公の大同世界としてえがきだしているかにみえ*2、そのかぎりでこの公は平分の義を強くうちだしたものであるといえる。(p.5)

  そして氏は、両者の相違として「倫理性の有無」を取り上げます。

 しかし、にもかかわらず皇帝が支配者たりうるのは、タテマエであれ、共なり公平が期待されているからであり、それがなければ皇帝は単に天下をひとりじめする「独夫」「民賊」でしかないという 易姓革命の思想も背景にちゃんと流れているのであり、そのかぎりにおいては皇帝は一群がもつ公の倫理性から自由でありえない。これは日本の天皇が無条件かつ無媒介におおやけそのものであるのとは、やはり非常に違う。

 この倫理性の有無というのが、両者の差異をきわだたせる特徴の一つで、中国の公私が、特に(一)群については、公正に対する偏邪という正・不正の倫理性をもつのに対し、おおやけ対わたくしの方は それ自体としては、あらわに対するしのび、おもてむきに対するうちむき、官事・官人に対する私事・私人、あるいは近代に入って国家・社会・全体に対する個人・個というように、何ら倫理性をもっていない。公私のからみや対立はあっても、往々それは義理人情に擬せられうるもので、決して善・悪や正・不正レベルの対立ではない。強いて倫理性があるとすれば、おおやけのためにすることが支配の側からあるいは全体の意思として規範づけられる場合においてであり、その場合その支配者なり全体の意志の善・悪、止・不正は全く問題にならない。したがってかりにそれを倫理とよぶとしてもそれは所属する集団内部を紐帯するだけの閉鎖的なもので、むしろ対外的には当該集団の 私に従属することさえあり、公平なら公平の原理がもつ内外貫通の均一性・普遍性はみあたらない。

 当否はともかく、論理が明晰でとても読みやすい本でした。

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 ちなみに、以前「論文読書会」で溝口氏の論文を題材に取ったことがあります。合わせてご参照ください。

 

chutetsu.hateblo.jp

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(棋客)

 

*1:筆者注:原文は以下。「昔先聖王之治天下也、必先公、公則天下平矣。平得於公。嘗試觀於上志、有得天下者眾矣、其得之以公、其失之必以偏。凡主之立也、生於公。故鴻範曰「無偏無黨、王道蕩蕩;無偏無頗、遵王之義。無或作好、遵王之道。無或作惡、遵王之路」。天下非一人之天下也、天下之天下也。陰陽之和、不長一類。甘露時雨、不私一物。萬民之主、不阿一人。」

*2:筆者注:原文は以下。「大道之行也、天下為公。選賢與能、講信修睦、故人不獨親其親、不獨子其子、使老有所終、壯有所用、幼有所長、矜寡孤獨廢疾者、皆有所養。男有分、女有歸。貨惡其棄於地也、不必藏於己。力惡其不出於身也、不必為己。是故謀閉而不興、盜竊亂賊而不作、故外戸而不閉、是謂大同。」

とある最近の本について

 最近発売された山口謠司『唐代通行『尚書』の研究』勉誠出版、2019)が大学の図書館に入っていました。

 個人的に興味のあった、第二章・第五節の「『群書治要』所引『尚書』攷」のうち、舜典について調査した部分から、「p.122、p.123の六つの条だけ」をチェックしたものを以下に載せます。ここは資料集になっている部分で(というより本書のほとんどが資料集なのですが)、『群書治要』所引の『尚書』と、現行本『尚書』の字句の異同がある箇所を比較して並べている部分です。

 念のため言っておきますが、自分の興味からこの部分を最初に読んだので細かくチェックしたというだけで、特にミスが多いところを取り立てて選んだわけではありません。

 ここは、見出し字が「」の中に二つ並べられ、場合によっては山口氏がコメントを附す、という形式になっています。最初の見出し字は「汲古書院影印の金沢文庫旧蔵鎌倉写本」の『群書治要』に引かれる『尚書』かと思われます(底本が何なのかはっきり書かれていないのですが)。次に書かれているのが「北京大学本」(十三経注疏整理本)です。

 なお、写本の書体は入力できない字(■で代用)が多くブログに載せにくいので、ここでは触れないことにしました。よって字句に関してコメントしているところは、全て「北京大学本」の条に関するものであることをご承知おきください。


 まず、最初の条。

 「■舜■■堯聞之聡明(側側陋微微賎)將使嗣位歴試諸難(歴試之以難事)」
 「虞舜側微(爲庶人故微賎)堯聞之聡明(側側陋微微賎)將使嗣位歴試諸難(嗣継繼也試以治民之難事)」(北京大学本、五九頁)

 舜典のこの部分は、偽孔伝である。今文『尚書』にはこの文章はなく堯典からすぐに「慎徽五典五典克從」に続く。はたして、今、「側側陋微微賎」は孔伝には見当たらない。『經典釋文』(敦煌本「舜典」)は「王氏注」として、この本文の「之(■)」「使(■)」「嗣(■)」「諸(■)」「作舜典」と挙ぐ。あるいは、『群書治要』所引の「舜典」は、『經典釋文』と同じ王肅注本を使っていたものかと思われる。『一切經音義』に「王注微賎也」とあり。

 北京大学本の条、「嗣継繼也」→「嗣繼也」、「賎」→「賤」、「堯聞之聡明(側側陋微微賎)」→「堯聞之聦明」(伝は削除すべき)、「歴」→「歷」。

 どれもただの異体字タイプミスですが、本書は各本における『尚書』の字句の揺れを考察するものであり、本書の他の部分では、普通は異体字として処置し気に留めない異同でも、非常に細かく掲出してあります。であれば、この辺りにも特に気を遣うべきです。本来は、これがこの本の強みになりうる唯一の点なのですが…。*1

 まあ、以上のような誤りなら、「細かいミス」ということで話は済むかもしれません(細かな字の異同をテーマにした研究書ですから、実際は致命的なミスなのですが)。問題は、次の山口氏の解説部分です。

 ①まず、「舜典のこの部分は、偽孔伝である。」という表現そのものに違和感があります。ここは経文であって孔伝ではないのですから。

 ②山口氏が言う「今文『尚書』にはない「舜典」の冒頭部分」とは、上の条の直後の「曰若稽古帝舜、曰重華協于帝、濬哲文明溫恭允塞、玄德升聞乃命以位。」の二十八字のことです。ここで挙げられる「虞舜側微、堯聞之聡明、將使嗣位歴試諸難、作舜典。」は、当然ですが、「書序」の文章です。『尚書』の書序と経文の区別がついていないとは、『尚書』の研究者としてはいかがなものでしょうか。
 また、そもそも、この二十八字部分は、齊の姚方興本によるものですから、「今文『尚書』にはこの文章はなく」という表現にも違和感を覚えます。古文『尚書』にももともとこの文章はなかったわけですから。(本書の他の部分を見てみても、著者は姚方興本のことをご存じないようです。)

 ③「「側側陋微微賎」は孔伝には見当たらない。」は事実としては正しいのですが、上の校勘のリストではあることになってしまっています。

 

 補足:先に述べたように、舜典の冒頭二十八字は齊の姚方興によったものであり、王粛よりも後代のものですから、仮に上に述べた問題点を取っ払って読んだとしても、そもそも議論になりません。ただ、上の部分は正しくは「書序」ですから、ここに王粛注が附される可能性自体はあります。

 さて、「『群書治要』所引の「舜典」は、『經典釋文』と同じ王肅注本を使っていたのかもしれない」という指摘は興味深いところです。最近、個人的に姚方興本受容の状況を少し調べているのですが、『群書治要』の例も調べてみようか、と思いました。(※2020.10.18追記:この点については、1940年代の研究である石濱純太郎『支那學論攷』に既に詳しく論じられています。このぐらいはチェックしてほしいものです。)

 


 その一つ次の条。

 「慎徽五典五典克從(五典五常之教也謂父義母慈兄■弟恭子孝舜舉八元使布五教于四方五教能從无違命也)」
 「慎徽五典五典克從(徽美也五典五常之教也謂父義母慈兄友弟恭子孝舜慎美篤行斯道舉八元使布之於四方五教能從無違命)」(北京大学本、六一頁)

 北京大学本、「五典五常之教也謂父義母慈・・・」→「五典五常之教父義母慈・・・」


 その一つ次の条。

 「納于百揆百揆時敘(揆度舜舉八凱以度百事百事時敘也)」
 「注揆度也度百事揔百官納舜於此官舜舉八凱使揆度百事百事時敘無廢事業」(北京大学本、六一頁)

 急に「注揆度也・・・」と出てきて、北京大学本の項目の立て方がおかしくなっています(びっくりされると思いますが、本当にこうなっています)。すぐに気が付きそうなものですが…。前後の体例に合わせるなら、「納于百揆百揆時敘(揆度也度百事揔百官納舜於此官舜舉八凱使揆度百事百事時敘無廢事業)」とするべきでしょうか。


 その一つ次の条。

 「賔于四門四門穆穆(賓迎也四門宮四門也舜流四凶族。諸侯群臣來朝者舜賓迎之皆有美徳无凶人也)」
 「賔于四門四門穆穆(舜流四凶族四方諸侯來朝者舜賓迎之皆有美徳无凶人)」(北京大学本、六一頁)

 北京大学本、「賔」→「賓」、「徳」→「德」、「无」→「無」

 ここの偽孔傳、北京大学本は「穆穆美也四門四方之門舜流四凶族四方諸侯來朝者舜賓迎之皆有美德無凶人」で、前半が抜けています。

 ここだけ「。」があるのも、体例に合っていません。


その一つ次の条。

 「納于納于大■烈風雷雨弗迷(納舜於尊顕之官使大錄万機之政於是陰陽清和烈風雷雨各以期應不有迷錯■伏明舜之行合於天心也)」(欄下に「■」を「籀文愆字」と)
 「納于納于大麓烈風雷雨弗迷(麓錄也納舜使大錄萬機之政陰陽和風雨時各以其節不有迷錯愆伏明舜之𤤯合於天)」(北京大学本、六一頁)

 『北堂書鈔』(巻五十九)に王肅注として、「堯納舜於尊顕之官使天下大錄万機之政」とあり。

 北京大学本「納于納于大麓」→「納于大麓」、「𤤯」→「德」(びっくりする誤字ですが、本当にこうなっています)

 王粛注の佚文を『北堂書鈔』からのみ挙げていますが、他、『釋文』に「麓、錄也。」、『尚書正義』に「堯得舜任之事無不統、自慎徽五典以下是也。」があります。(この佚文は『藝文類聚』『太平御覽』にも見えます。)


 その一つ次の条。

 「正月上日受終于文祖(略)」
 「正月上日受終于文祖(上日朔日也終謂堯終帝位之事文祖者堯文𤤯之祖廟)」(北京大学本、六四頁)

 同じく、「𤤯」→「德」。

 なお、『釋文』に「王云、文祖、廟名。」とあります。また、『尚書正義』に「先儒王肅等以為惟殷周改正、易民視聽、自夏已上、皆以建寅為正、此篇二文不同、史異辭耳。」とあるのも参考に載せておいても良いかもしれません。

 

 その一つ次の条。

 「五載一巡守羣后四朝■奏以言明試以功車服以庸(略)」
 「五載一巡守羣后四朝(略)敷奏以言明試以功車服以庸(敷陳奏進也諸侯四朝各使陳進治禮之言)」(北京大学本、七二頁)

 北京大学本「敷陳奏進也諸侯四朝各使陳進治禮之言」→「敷陳奏進也諸侯四朝各使陳進治禮之言明試其言以要其功功成則賜車服以表顯其能用」

 なお、「治禮之言」を、北京大学本は阮元校勘記に従って「治理之言」に改めています。が、上ではそのままになっています。

 また、コメントに「『經典釋文』(北京大学本)は、「四朝、馬、王、皆云・・・」」とありますが、北京大学本の『經典釋文』とは、上までで使ってきた北京大学本の附釋音のことでしょうかね。附釋音には改変が多いですから、これもちょっとどうかと思います。

 

 本書は、以上のような異同のリストの部分が全体の八割近くを占めているのですが、果たして他のリストは使い物になるのでしょうか。はなはだ疑問です。

 他にも書きたいことは色々あります。①考証学者の文章の長大な引用に全く句点が入っていない上に、校勘した形跡がほとんど見受けられないこと(データベースそのままではないかと思います)。②○○の問題を解決するために異同を調査する、という形で異同の整理が始まるのに、その後ろに結局何ら結論が示されないこと。③本研究によって博士号を取得されていること(そして教…に…)。④「はじめに」と「おわりに」、などなど。しかし、もうここまでにしておきます。

 

 この本は大学の図書館に相当入っているようですので(現時点で22館)、注意喚起のために記事にしておきました。正直、使い物にならないです。『尚書』について知りたい方は、野間文史『五経入門』平岡武夫『経書の成立』といった概説書や、翻訳書(加藤常賢訳などがあります)をお勧めします。

(棋客)

 

*1:なぜ「北京大学本」と比べるのか、というのはよく分かりませんが、本書全体を通してそうなっています。本書には、「こうした部分を参照しても、越刊八行本は北京大学本とほぼ一致し、従って経注疏合刻の祖である越刊八行本は、比較的本文に誤刻の少ない本であったということが出来るであろう。」(p.80)といった表現もあるほどで、なぜか「北京大学本」に特別の価値を見出されているのかもしれません。北京大学本は最近作られた標点本で、便利なものではありますが、誤字が多いことも知られており、普通はわざわざ比較対象に選ぶ本ではありません。ただ、本書を読んでいると、もはやこの点に突っ込みを入れる気さえ失せ、それならそれでせめて正確にやってくれ、という気持ちになってきます。

齋木哲郎『後漢の儒学と『春秋』』について(2)

 前回紹介した鄭玄『發墨守』『鍼膏肓』『起廢疾』は現存しない佚書であり、様々な輯佚書が作られています。

 仮に『増訂四庫簡明目録標注』によって挙げておくと、漢魏叢書本、藝海珠塵本、問經堂叢書本、范述祖本、孔廣森『通德遺書所見録』本、袁鈞『鄭氏佚書』本といったものがあるようです。

 前回紹介した、斎木哲郎『後漢の儒学と『春秋』』(汲古書院、2018)では、鄭玄『發墨守』『鍼膏肓』『起廢疾』について、

 叢書集成初編所収の問經堂叢書本、王復輯『發墨守』『鍼膏肓』『起廢疾』を底本として使用する。ただし、この本には誤字が比較的多く、漢魏遺書鈔本の『公羊墨守』『左氏膏肓』『穀梁廢疾』によって字を改めた所がある。(p.238)

 と書かれています。

 

 ただ、古典研究において、原典を引用する際、その情報源にきちんと当たるのはまず基本と言うべき態度でしょう。今回の場合であれば、輯佚書が集めてきた材料の拠り所を調べる必要があるわけです。「輯佚書を底本にして元の資料と校勘」ならまだしも、輯佚書と輯佚書を校勘するというのは、ちょっと不思議というか、あまり意味のない校勘と言わざるを得ません。(実際、字の異同は色々と見つかりました。*1

 輯佚書には、その輯佚者による編集が加わっているのが常です。例えば、ある一つの佚文に対して数ヶ所の引用例が残っている場合、その両者を繋ぎ合わせて一つの文章に整理してしまうケースは、その代表的なものでしょうか。

 もちろん、その情報源を見ることが叶わない場合もあり、それなら仕方がないのですが、鄭玄『發墨守』『鍼膏肓』『起廢疾』の輯佚元は大体が普通の注疏です。

 

 さて、そうはいっても、まずざっと全体を確認する場合や、その佚書の内容を一通り調べたい場合には、当然ながら輯佚書は非常に大きな武器になります。というわけで、たくさんの種類の輯佚書がある場合に、そのうちのどれが優れているかを確認しておくのも、必要な手続きということになります。

 そして調べてみると、ただの輯佚書ではなく、清人によって議論が加えられより便利になった本が見つかることもよくあります。今回の場合、皮錫瑞『發墨守箴膏肓釋廢疾疏證』がそれに当たります。(もちろん場合に拠りますが、単純に新しい輯佚本ほど整理が行き届いている、とも言えます。)

 

 ちなみに、自序にはこんなことが書いてありました。

 『發墨守箴膏肓釋廢疾疏證』自序

 三書既佚、輯本以袁鈞《鄭氏佚書》為詳。惟袁亦有疏失、以孔疏為鄭義、且以孔引蘇寬說為鄭君自引、尤謬誤之顯然者。

 皮錫瑞に拠れば、皮氏以前なら袁鈞『鄭氏佚書』が最も良いようです。現在なら、やはり皮錫瑞本が最も詳細かと思います。

 皮錫瑞はここで、袁鈞本の輯佚のおかしな部分も指摘しています。また今度確認しておきたいと思います。

 

 今回のところはとりあえず、前回紹介した『左傳』昭公七年の条について、『發墨守箴膏肓釋廢疾疏證』を見ておきましょう。

『發墨守箴膏肓釋廢疾疏證』箴膏肓疏證

 七年傳、子產曰「鬼有所歸、乃不為厲。吾為之歸也。」

 《膏育》孔子不語「怪力亂神」。以鬼神為政、必惑衆、故不言也。今《左氏》以此令後世信其然、廢仁義而祈福於鬼神、此大亂之道也。子產雖立良止以託繼絶、此以鬼賞罰、要不免於惑衆、豈當述之以示季末。

 箴。伯有、惡人也、其死為厲鬼。厲者、陰陽之氣相乘不和之名、《尚書五行傳》「六厲」是也。人死、體魄則降、魂氣在上、有尚德者、附和氣而興利。孟夏之月「令雩祀百辟卿士有益於民者」、由此也。為厲者、因害氣而施災、 故謂之厲鬼。《月令》「民多厲疾」、《五行傳》有「禦六厲」之禮。《禮》「天子立七祀、有大厲。諸侯立五祀、有國厲。」欲以安鬼神、弭其害也。子產立良止、使祀伯有以弭害、乃《禮》與《洪範》之事也。「子所不語、怪力亂神」、謂虛陳靈象、於今無驗也。伯有為厲鬼、著明若此、而何不語乎。子產固為衆愚將惑、故並立公孫泄、云「從政有所反之、以取媚也。」孔子曰「民可使由之、不可使知之。」子產達於此也。

 疏證曰劉逢禄評曰「如良霄宜繼、子產宜早立良止而黜駟帶、公孫段、以弭厲於未然。如良霄宜誅、則奠其游魂、《禮》固有族厲之事矣。左氏好言怪力亂神之事、非聖人之徒也。」錫瑞案《左傳集解》曰「民不可使知之、故治政或當反道、以求媚於民。」正義曰「反之、謂反正道也。媚、愛也。從其政事治國家者、有所反於正道、以取民愛也。反正道者、子孔誅絶、於道理不合立公孫泄、今既立良止、恐民以鬼神為惑、故反違正道、兼立公孫泄、以取媚於民、令民不惑也。段與帶之卒、自當命盡而終耳、未必良霄所能殺也。但良霄為厲、因此恐民、民心不安、義須止遏、故立祀止厲、所以安下民也。」引何休《膏肓》云云。據杜孔申《左》、與鄭《箴》意合、蓋即本於鄭《箴》。《左傳》曰「鄭人立子良、子良辭、乃立襄公。襄公將去穆氏、而舍子良。子良不可、乃舍之、皆為大夫。」傳又曰「子良、鄭之良也。」案、子良有讓國之美、七穆並列卿位、皆由子良。伯有、子良之孫、雖有酒失、亦無大罪。子晳以私怨、專伐伯有。諸大夫皆祖子晳、不念子良之功、而使其後先亡。此極不平之事。惟子產能持公義、哭歛伯有、乃不明分功罪、為之立後、必使伯有為厲而後立之、固無辭於「以鬼賞罰」之譏矣。《五行傳》作「六沴」、鄭《箴》引云「六厲」、則 「厲」「沴」古通用、鄭君所見《五行傳》當有作「六厲」者。

 ちなみに「謂虛陳靈象、於今無驗也。」の句点は、十三経注疏整理本の句点も、皮錫瑞全集の句点も同じくこのように作っています。やはりこれが正しいと思います。

 鄭玄説を理解する上では、太字にした『正義』の解説が最も分かりやすいでしょうか。結論としては、「固無辭於「以鬼賞罰」之譏矣。」ということで、何休の批判を退けています。

 

 さて、少し調べてみたところ、関連する論文や書評がありましたので紹介しておきます。一応、どちらも目を通してみました。

田中麻紗巳「鄭玄「發墨守」等三篇の特色」(『日本中国学会報』第三十集、1978)

・井ノ口哲也(書評)齋木哲郎著『後漢儒学と『春秋』』(『日本秦漢史研究』第19号、2018)

 

(棋客)

*1:①p.229、僖公三十年の条、「經近立言」→「經近上言」
②p.239、注11、多くの輯佚書では儀礼疏に見える同条の佚文を大幅に付け足している。