今回は、余嘉錫『四庫提要辨證』史部一の『後漢書』の条を読んでみようと思います。余嘉錫に導かれながら、『後漢書』の複雑な来歴を整理してみようという算段です。
『四庫提要辨證』は、『四庫全書総目提要(四庫提要)』の各条に対して補訂を加えたものですから、『辨證』を読むためには『提要』の内容を把握しておかなければなりません。
というわけで、まずは『四庫提要』に載っている『後漢書』の解説を見ることから始めていきましょう。『四庫提要』は、四庫全書を作った際、その各本に対して付けられた概要を集めて一つにしたもので、知らない本が出てきたらまずこれを見よ、という本ですね。
『後漢書』はいわゆる「四史」の一つで、『史記』『漢書』『三国志』と並び高い評価が与えられていますが、その来歴には複雑なところがあります。
現行本の『後漢書』は、本紀十二卷・列傳八十八卷・志三十卷の計一百三十卷から成っています。このうち「本紀」と「列傳」は、南朝宋の范曄(字は蔚宗)の作、「志」の部分は西晉の司馬彪(字は紹統)の『續漢書』から抜き取って補われたものです。この辺りは常識的な事柄でしょうか。
范曄は謀反の咎で処刑された人物ですが、これについては最近復刊された吉川忠夫『侯景の乱始末記』の「史家范曄の謀反」に活写されていますので是非読んでみてください。司馬彪も癖のある学者でよく名前を見かけますが、専論などあるのでしょうか。
さて、この『後漢書』に対する注釈としては、まず梁の劉昭が作ったものと、唐の李賢(章懷太子)が作ったものが残っています。現行本では、本紀と列傳は李賢注、志は劉昭注というハイブリッドになっています。
ここまで確認したところで、まずは『四庫提要』を順番に確認していきましょう。(番号は筆者が附す)
『四庫提要』史部・後漢書・一百二十卷・内府刊本
①『後漢書』本紀十卷,列傳八十卷。宋范蔚宗撰,唐章懷太子賢注。蔚宗事蹟具『宋書』本傳,賢事蹟具『唐書』本傳。
②考「隋志」載范書九十七卷,新舊『唐書』則作九十二卷,互有不同。惟「宋志」作九十卷,與今本合。然此書歷代相傳,無所亡佚。考「舊唐志」又載章懷太子注『後漢書』一百卷。今本九十卷,中分子卷者凡十。是章懷作注之時,始併爲九十卷,以就成數。「唐志」析其子卷數之,故云一百。「宋志」合其子卷數之,故仍九十,其實一也。
①は、まず范曄の手になる部分についての基本情報を示しています。
②は、歷代の范曄『後漢書』の巻数が異なる点について、整理を与えています。(歷代の正史の目録が『後漢書』をどう扱っているかについては、次回整理して示します。)
ここに出てくる「子巻」という語については、先日古勝先生が解説してくださいました。
「子巻」とは、一巻(もしくは一篇)の分量が多すぎる時に、巻を上下もしくは上中下と分けた(下位分類を作った)ものです。たとえば『漢書』王莽伝は、上中下、三つの子巻に分けられています。
— 古勝 隆一 (@KogachiRyuichi) March 7, 2020
以上が基本的な情報。『提要』の体例は、まず著者の基本的な情報や巻数について述べるようになっています。
③又隋唐志均別有「蔚宗後漢書論贊五卷」,宋志始不著錄。疑唐以前論贊,與本書別行,亦宋人散入書内。然『史通』論贊篇曰:「馬遷自序傳後,歷寫諸篇,各敍其意。旣而班固變爲詩體,號之曰述。蔚宗改彼述名,呼之以贊。固之總述,合在一篇。使其條貫有序。蔚宗後書,乃各附本事,書於卷末。篇目相離,斷絕失序。夫每卷立論,其煩已多,而嗣論以贊,爲黷彌甚。亦猶文士製碑,序終而續以銘曰:釋氏演法,義盡而宣以偈言云云。」則唐代范書論贊,已綴卷末矣。史志別出一目,所未詳也。
③は范曄の『後漢書論贊』という書物について言及します。現行本の『後漢書』では、各列傳の最後に贊が附されており、贊が別行していたようには見えないため、疑問が生じたのでしょう。ここでは、『史通』の記述から、唐代には既に巻末に附されていたはずであり、目録で范曄論贊が別に立てられてある理由は不明としています。
④范撰是書,以志屬謝瞻,范敗後,瞻悉蠟以覆車,遂無傳本。今本八志凡三十卷,別題梁剡令劉昭注。據陳振孫『書錄解題』,乃宋乾興初判國子監孫奭建議校勘,以昭所注司馬彪「續漢書志」與范書合爲一編。
⑤案「隋志」載「司馬彪續漢書八十三卷」,『唐書』亦同。「宋志」惟載「劉昭補注後漢志三十卷」,而彪書不著錄。是至宋僅存其志,故移以補『後漢書』之闕。其不曰「續漢志」而曰「後漢志」,是已併入范書之稱矣。
⑥或謂「酈道元『水經注』嘗引司馬彪州郡志,疑其先已別行」,又謂「杜佑『通典』述科擧之制,以『後漢書』『續漢志』連類而擧,疑唐以前已併八志入范書」,似未確也。
④で、現行本の「志」に関する考察に移ります。冒頭は、『後漢書』皇后紀・李賢注引沈約謝儼傳の「范曄所撰十志,一皆託儼。搜撰垂畢,遇曄敗,悉蠟以覆車。宋文帝令丹陽尹徐湛之就儼尋求,已不復得,一代以為恨。其志今闕。」に拠ります。これは「謝儼」の話ですから、『提要』が「謝瞻」に作るのは誤りでしょうか。(ちなみに、余氏はこの誤りには特に言及していません。)
ちなみに、謝儼と范曄は一緒に『後漢書』を執筆していたようで、同じく李賢注引沈約宋書(班彪列傳)に「初,謝儼作此贊,云『裁成典墳』,以示范曄,曄改為『帝墳』。」という記述があります。
なお、ここで挙げた二条はどちらも現行本『宋書』には残っていないようです。現行本『宋書』が後の補亡を経たもので旧本と異なる点が多いということについては、『辨證』の『宋書』の項目で余氏が言及していますので、併せて参照にしてください。
さて、いずれにせよ、范曄『後漢書』の「志」が欠けていた代わりに、司馬彪『續漢書』の「志」三十卷が採用された訳です。これと范曄『後漢書』が一書になった時期については、『直齋書錄解題』の記述から、北宋の孫奭によるとしています。(※次回、余氏によって反論されるのはこの辺りの話です。上の引用の下線部。)
そして⑤で、司馬彪『續漢書』は唐代まで残っていたものの、宋代には志の部分しか残っておらず、これが范曄『後漢書』の闕を補うために合併されたとしています。
⑥は、④~⑤に対する反論の一つで、1.北魏の酈道元が既に司馬彪「州郡志」を引くため、司馬彪の「志」は(『續漢書』から離れて)古くから別行していたのではないか、2.唐代の杜佑が既に両書を続けて引いているから、范曄の本紀・列傳と司馬彪の志は唐代に既に合わさっていたのではないか、という二つの根拠を挙げています。『提要』は、この説については「似未確也」として退けています。
なお、⑥の「或謂」の説は、四庫提要史部の草稿を作った邵晋涵の説です。『南江詩文鈔』の「後漢書提要」で確認することができます。
⑦自八志合併之後,諸書徵引但題「後漢書某志」,儒者或不知爲司馬彪書。故何焯『義門讀書記』曰:「八志,司馬紹統之作。(案,紹統,彪之字也。)本漢末諸儒所傳,而述於晉初,劉昭注補,別有總敍。緣諸本或失載劉敍,故孫北海『藤陰剳記』亦誤出蔚宗志律曆之文云云」。考洪邁『容齋隨筆』已誤以八志爲范書,則其誤不自孫承澤始。今於此三十卷,並題司馬彪名,庶以祛流俗之譌焉。
⑦ここは、「志」の部分が司馬彪の手になることを知らない学者が多いことを述べています。孫北海(孫承澤)は明末清初の人。
以上が『四庫提要』の内容です。次回、これに対する余嘉錫の補訂をご紹介いたします。
(棋客)