顧廣圻(字は千里、1766-1835)は、清朝考証学を代表する文献学者の一人です。段玉裁(1735-1815)に激賞され、『十三経注疏校勘記』の作成などに従事し、『説文解字注』の校勘者としても名前が見えています。
しかし、顧千里と段玉裁はいくつかの学説を巡って衝突し、ついには絶交してしまうことになりました。三十歳の年齢差を隔てながらも学問を通して結ばれた仲が結局破壊されてしまうとは、なんとも悲しいものです。詳しくは以下の記事をご参照ください。
この二人の論争がいかなるものであったのか、自分なりに調べてみたので、今日から紹介していこうと思います。
なお、二人の論争の概要については、汪紹楹「阮氏重刻宋本十三經注疏考」(『文史』3輯、1963)附録「段顧校讎篇」や喬秀岩「學《撫本考異》」(『学術史読書記』、2019)、「禮記版本雑識」(『文献学読書記』、2018)に詳しいので、合わせて参考にしてください。
両者のもっとも有名かつ激烈な論争は「四郊」と「西郊」に関するものですが、これについては以下に解説があります。
今回は、『禮記』曲禮上「禮、不諱嫌名、二名不偏諱。」の条に関する両者の説の相異を見ていきます。まずこの条を読む上での前提を整理しておきましょう。
『禮記』曲禮上(阮元本)
〔經〕禮、不諱嫌名、二名不偏諱。
〔注〕為其難辟也。嫌名、謂音聲相近、若禹與雨、丘與區也。偏謂二名不一一諱也。孔子之母、名徵在、言在不稱徵、言徵不稱在。
〔疏〕正義曰、「不徧諱」者、謂兩字作名、不一一諱之也。孔子「言徵不言在、言在不言徵」者、案『論語』云「足則吾能徵之矣」是言徵也。又云「某在斯」是言在也。案、『異義』「公羊説譏二名、謂二字作名、若魏曼多也。左氏説二名者、楚公子弃疾、弒其君即位之後、改為熊居、是為二名。許慎謹案云、文武賢臣有散宜生蘇忿生、則公羊之説非也。從左氏義也。」
ここは避諱の規則を述べるところ。まず、「不諱嫌名(嫌名を諱まず)」とは、鄭玄によれば、漢字の音が近いというだけでは避諱を行わないということ。
今回問題となるのは、「二名不偏諱」の方です。問題になるとはいっても、これがどのような規則を指しているのか、という点についての鄭玄の説明は、具体例が出されているので比較的はっきりしています。
孔子之母、名徵在、言在不稱徵、言徵不稱在。
「二名」とは、「二文字の名前」のこと。この二文字の両方を同時に使わないのが避諱であって、常に両方の字を避ける必要はない。事実孔子は、「徵」の字を使うこともあるし、「在」の字を使うこともあるけれども、両方を同時に使うことはないじゃないか、と言っているわけです。この鄭説は、『禮記』檀弓下「二名不偏諱。夫子之母名徵在、言在不稱徵、言徵不稱在。」から来ているのでしょう。
なお、疏は許慎の『五経異義』を挙げ、公羊説では「二名」を二文字の名前を持つ者とし、左氏説では「二名」を改名して二種の名前を持つ者としていることを述べています。これも興味深いですが、今回の話題とは無関係ですので、置いておきます。
さて、ここで問題となるのは、「二名不偏諱」が上のような現象を表しているのは良いとして、その際に「二名不偏諱」の語がその現象を正しく表現できているのか?という点です。
阮元『十三経注疏校勘記』には、以下のように書かれています。
二名不偏諱
各本同。毛居正云「偏本作徧、與遍同、作偏誤。『正義』云、不徧諱者、謂兩字不一一諱之也。此義謂二字為名、同用則諱之。若兩字各隨處用之、不於彼於此一皆諱之、所謂「不徧諱」也。按、舊杭本柳文載「柳宗元新除監察御史、以祖名察躬、入狀奏、奉勑新除監察御史、以祖名察躬、準禮二名不遍諱、不合辭遜。」據此作遍字、是舊禮作徧字明矣。今本作偏、非也。若謂二字不獨諱一字亦通。但與鄭康成所注文意不合。可見傳寫之誤。然仍習既久、不敢改也。」
ここで、宋の毛居正『六経正誤』による、「偏」は「徧」に作るべきとする説が引用されています。よく見ると、先に引用した疏文も「徧」に作っていますね。
「偏pian1」は「かたよる」で、歪である、全面的でない、正確でない、の意。
「徧bian4」は「遍」と同字で、普遍である、全面的である、の意。
つまり、ここでは「二字を両方とも諱むわけではない」ことを示しているのだから、「二名不徧諱(二名徧(あまね)くは諱まず)」が正しいのではないか、と主張しているわけです。
「二名不偏諱(二名偏(かたよ)りては諱まず)」では、二字のうち片方に偏らずに両字とも避諱すべし、の意になってしまうということでしょう。
なるほど、一理ある考え方に思えます。
さて、ここから「段顧之争」の幕が上がります。「偏」と「徧」との僅か一字の相違に、互いの経学観や学問的方法論の差が詰まっているわけです。
全五回の記事になります。合わせて、盧文弨や王念孫の説も紹介する予定です。乞うご期待!
(棋客)