達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

「曲礼」について(下)―『礼記目録後案』より

 前回の続きです。「曲禮」についての考察が進みます。

【第三節】
 ①按「曲禮」之名見于《禮器》、曰「經禮三百、曲禮三千」、而《中庸》作「禮儀」「威儀」。鄭君以禮經為《周官》、曲禮為《儀禮》、蓋尊尚《周官》以成三《禮》之名。

 然《周官》戦國之書、不成于姬孔。且三百特官名耳、不得傅會儀文、臣瓚已嘗譏之。朱子独取葉夢得「經、禮制之凡。曲、禮文之目」之説、而謂《儀禮》為經禮、所謂曲禮則皆禮之微文小節、如今《曲禮》、《少儀》、《内則》、《玉藻》、《弟子職》所記者是也。以之通《禮器》之文、亦為確矣。

 ②雖然、若《儀禮》十七篇、今所見者、于進退揖讓之節、衣冠名物之制固已詳矣。其有逸者、雖不必後人所輯皮傅三十九篇之文、要必有尤詳備者。又有七十子後學所為記、今見之十七篇中者尚有存焉。若是則于禮亦彬彬矣、豈尚有微文小節乃十倍于是乎。今謂三千三百者虚拟之數、彼多于此而已矣。

 ①「曲禮」について考えるに当たっては、当然、他書にどう引かれているのかということを考えなければいけません。『禮記』禮器に「經禮三百、曲禮三千」とあり、中庸には「禮儀三百、威儀三千」とあります。前回紹介したように、鄭玄は曲禮を儀禮に当てはめていて、孫氏も「曲禮三千」を「儀禮」とする説は鄭説を継承しています。

 任氏の批判は以下です。まず、鄭玄が「禮經―周官」「曲禮―儀禮」という対応で解釈することに対して、実際は『周官』は戦国期の書であるということと、『周官』は官職の名を三百並べているだけで「經禮三百」の語には合わないことを挙げ、『周官』は『儀禮』に沿うものではないとします。

 では、任氏による『禮記』禮器「經禮三百、曲禮三千」の解釈はどうなるのかといえば、禮の制度の一般的な原則である「經禮―儀禮」と、禮の文章の細目である「曲禮―禮之微文小節」とに分けるという朱子の説に賛成しているようです。

 ②ただ、そうはいっても、現在の『儀禮』十七篇を見ると、細かな規則や制度についても詳細に記されています。現在の十七篇は一部のみの残存ですので、他の逸した部分にも詳しい記述が備わっていたはずです。更に、孔子の弟子が記したとされる部分が、十七篇の中には残っています(喪服篇の傳は子夏の作とされる)。このように、『儀禮』の禮が非常に整っているもので、書が失われなければ「微文小節」は今の十倍はあったはずで、「三千三百」より更に多いはずだと述べます。

 なお、「後人所輯皮傅三十九篇之文」は、『漢書』藝文志に「禮古經者、出於魯淹中及孔氏、與十七篇文相似、多三十九篇。」とあることによります。「皮傅」は、無理にこじつけること。

【第四節】
 「經禮」者、禮之常制、或曰禮、或曰儀、故《儀禮》古但謂之「禮」「禮儀」、儀禮亦同名也。

 「曲禮」者、古有其書、《記》引「母不敬」十二字是其遺文。而《孔子家語》有《曲禮子貢問》、《曲禮子夏問》、《曲禮公西赤問》三篇、今《家語》雖非舊本、然言必有據、其文又多與《檀弓》、《雜記》相類似、既蒙「曲禮」之名、則亦《曲禮》之遺篇也。《漢書・王式傳》「式曰、客歌《驪駒》、主人歌《客毋庸歸》、在《曲禮》。」注「服虔曰、《驪駒》、逸《詩》篇名也、見《大戴記》。」按《驪駒》之文在《曲禮》舊篇、後世為《大戴記》者或綴取之、故王式見之于《曲禮》之書、而服度見之已入《大戴記》、猶此《禮記》之引《曲禮》十二字也。服氏云見《大戴記》者、謂《驪駒》之詩、非《曲禮》之篇。或者據以謂《大戴記》亦有《曲禮篇》在逸篇中、固不必然、且亦昧乎此篇以篇首字命名之例矣。

 玩其文而究其旨、則曰「經禮」者、因儀以知數者也。「曲禮」者、因事以明義者也。義者無形而求之務盡、故曰曲。數者有節而行之不變、故曰經。一事而衍其義、一義而問而究之者不一人、故事三百而義三千也。漢儒既得聞《曲禮》而時采其義、故記中間見焉。至若或則曰威儀三千、或則曰動儀三千、其名或別有所安、予未能詳。抑朱子于諸名独取《禮器》者、其必以其于義為尤可信乎。

 ここは、「經禮三百、曲禮三千」の「經禮」と「曲禮」という語に対して、引き続き考察を加え、総括するところです。前半は省略して、最後の段落を要約しておきます。

 「經禮」とは、「儀」によって「數」を知るものである。「曲禮」とは、「事」によって「義」を明らかにするものである。「義」は無形であって、極め尽して明らかにするものであるから「曲」という。「數」は法則があって変わらないものであるから、「經」という。一つの「事」に対して「義」は敷衍して広がるし、更に一つの「義」を問い究める者も一人ではないから、「事」が三百で「義」が三千であるというのだ。云々。

【第五節】
 《漢書・藝文志》「《曲臺后倉》九篇。」《儒林傳》曰「倉説《禮》數萬言、号曰《曲臺記》。」則《漢志》當云《曲臺后倉記》九篇、記字脱耳。曲臺、劉歆、如淳皆以為宣帝時習射禮于曲臺、后倉為之辭。晋灼曰「曲臺、天子射宮也。西京無大學、于此行禮。」晋灼所言近是。蓋高堂生之傳有二。一則徐生以頌為禮官大夫、世傳其業。一則孟卿事蕭奮以傳后倉、講説禮義者。《漢志》云「后倉推士禮以至于天子。」則倉所記、推衍高堂生以来十七篇之義者也。《曲禮》或即后倉九篇之書、以其説于曲臺、故曰曲。或以其數萬言、曲盡禮義、多引古説、故曰曲。其書既不傳、無可考驗矣。

 最後に、『漢書』藝文志にある『曲臺后倉』という書との関係について考察します。つまり、『曲禮』とされる書物が、この書のことなのではないか、という指摘です(これまで任氏が述べてきたように、これは『禮記』曲禮篇とは無関係です)。

 『曲臺后倉』は全く内容が伝わっていないので、確かめようがないところですが、任氏の推測を附け加えておいたというところでしょう。

 

 以上、曲礼上の任氏の『後案』を読み進めてまいりました。正直、意図を拾い切れなかったところが多いので、いつかリベンジしたいところです。

(棋客)