達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

瞿同祖『中国法律与中国社会』の紹介

 ここ数日、瞿同祖『中国法律与中国社会』(中華書局、1981)を眺めています。先秦期から清代、民国にかけての、中国における法律・礼制の特徴と変遷を、膨大な実例を根拠にしながら明晰に整理したものです。

 もともと、新田元規氏の「中国礼法の身分的性格について--瞿同祖『中国法律与中国社会』を手がかりに」(『中国哲学研究』24)を読んで本書の存在を知りました。非常によく整理されていて、中国に限らず広く法制史・礼制史を専門にする方に推薦できる書籍だと思います。

 

 今回は、家族に関係する法律を整理した第一章のうち、第四節「親族復讐」の項(p.72~)を、翻訳して一部お示しします。ここは、中国古代の「復讐」に関する制度を整理する節です。

 冒頭から順番に翻訳します。

 復讐という観念とその習慣は、古代社会・原始社会においては極めて普遍的なものである。誰かに傷害を受けた人は、その仇敵を探し出して、同様の傷害を与えても構わない。社会的にその人の報復の権利は承認されているのであって、仮にその人が自分で仇を討つことができなかったとしても、その仇敵に生命の危険があることは変わらない。というのも、その人の家族や族人にも等しくその人の敵を討つ義務があるのであって、しかもただ族人の兄弟姉妹が相互に助け合って、共同で事に当たるというだけではなく、一人の個人に対する傷害が一族の全員に対する傷害と同様に考えられるため、個人の仇敵は一族全員の仇敵と同一視される。よって、これは一種の連帯責任にまで発展し、一族全体の力で報復に向かうことになる。特に、族人が誰かに殺害された場合、または傷が重くそのまま死に至った場合、その報復の責任は全て死者の族人が背負うこととなるが、これは他者には任せられない責任であって、道義として辞退することの許されないものである。復讐は、一種の神聖な義務であるとも言うことができる。

 ここの注釈で、歴史上はギリシャ人、ヘブライ人、アラブ人、インド人が復讐を認めており、『モーセ五書』『クルアーン』にも記載があること、また他の例が色々と挙げられています。また、復讐が神聖な義務とされた例として、復讐の記念品を保存する文化があること、または復讐を果たせなかった人が罰を受ける社会があること、などを述べています。

 次の段落で、復讐の対象が、加害者一人だけではなくその一族に向かうこと、それがしばしば一族同士の大規模な戦闘に発展することを述べます。下は、その更に次の段落です。

 しかし、ある社会では、復讐の対象はこのように曖昧で範囲の広いものではなく、「歯には歯を」の方法で行われることがある。誰かが私の兄弟を殺した場合、私はその人の兄弟を殺し、誰かが私に父親を失う孤独を与えた場合、私もその人に同様の孤独を味わわせようとする方法で、その目的は仇敵に同じ痛苦と損失を与えることにあり、仇敵本人はかえって傷を負わない。これは『孟子』の「殺人之父、人亦殺其父、殺人之兄、人亦殺其兄」と同じ状況である。

 またある社会では、復讐の対象は極めて厳格で、仇敵本人だけが対象となり、復讐しようとする人は仇敵と巡り合う時まで我慢強く復讐の機会を待つ。アメリカ大陸のインディアンのCommanche人はこのようであるし、中国の復讐の観念もこのようである。よって、中国で報復を避けるためには、ただ仇敵本人が逃げることさえすれば、流血の惨劇は発生しないということになり、彼の家族や族人にその影響は波及し得ない。

 また多くの社会では、直接の報復を原則とするが、本人を探し出せなかった場合、止むを得ず仇敵の最近親者を身代わりとする。

 こういった、犯罪者と無罪者を区別する概念について、Steinmetzの研究によれば、目標のない復讐は、目標があり範囲を弁別する復讐に比べて、原始的なものとされる。彼の考えでは、人類の知力が発達すると、悪事を防ぐための最良の方法は悪事を働いた者本人に対して罰を与えることであると、人々が徐々に悟るようになる。ここにおいて、復讐は第一期から第二期に到達する。・・・ 

 ここまで、世界の歴史上の「復讐」という概念が、過去の研究の中でどのように分類されてきたか、どのような種類があるかということが示されています。

 そしてここから、中国における「復讐」の特徴を具体的に述べるわけです。その導入部分を以下に示しておきます。

 注意を要するのは、他の社会においては復讐の責任を負う人(復讐を行う人)は親族の外にないが、中国においては親族に限らないという点であり、これは中国の復讐の習慣における特徴の一つである。中国の社会関係は五倫によって構成されているため、復讐の責任も五倫を範囲とするから、友人もその中に含まれる。後漢童子張には父叔の仇があったが未だ果たさず、病で死ぬ間際に、復讐を成し得なかったことを泣きわめき、幼いころからの友人の郅惲はその願いを知り、仇を取ってその首を示すと、子張は絶したという記録がある。友人が仇を取るというのは、座視できないことである。

 同時に我々が注意すべきなのは、中国人の社会関係に対する見方が、親疎の等級をとかく問題にするということで、よって報復の責任も親疎によって軽重の相違がある。五倫のなかでは父親が最も親であり最も尊いので、その責任も最も重い。父の仇ということになると、不倶戴天の敵であり、寢苫枕塊し、骨を折って自ら誓い、長い間策を練って、一心に復讐を思い、その他のことは全てをなげうたねばならず、この時は官仕えをしてはならない。兄弟の仇、従兄の仇、そして友人の仇に至るまで、関係が疎になるにつれて、復讐の軽重も異なっており、層次がある。

  ここから、『周礼』、戦国時代、漢代・・・と、「復讐」の具体例が紹介されます。また次回に。

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(棋客)