達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

古勝隆一『中国中古の学術と社会』

 最近、法蔵館より、古勝隆一先生の『中国中古の学術と社会』が上梓されました。

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 3~8世紀、中国中古時期は治乱興亡の時代環境を背景に学術が展開した時代であった。儒仏道・目録学・注釈学・国家権力・地域性に着目して、中古時期の思想・学術の諸問題を論じ、複雑多様な知のダイナミズムを分析する。(中国中古の学術と社会 - 法藏館 おすすめ仏教書専門出版と書店(東本願寺前)-仏教の風410年

 本ブログで力を入れて取り上げてきた話題に、経書の「注釈」、そしてその一つである「義疏」があります。→義疏 カテゴリーの記事一覧 - 達而録

 古勝先生の前著『中国中古の学術』では、こうした注釈・義疏そのものの展開についての研究が中心でした。本著は『中国中古の学術と社会』と題されている通り、そうした学術と当時の政治権力との関わりや、その地域性といった面も観点に入れて議論が展開されています。

 本書の第一章「注釈と書物」p.42-43から、少し引用して内容を紹介します。

 「古典を鑑賞する」「古典に親しむ」などという。「最近の若者は古典の素養がない」という言い方を耳にすることもしばしばである。しかし、そこから一歩踏み込んで「なぜ古典は古典となりえたのか」「古典はなぜ古典であるのか」という疑問を投げかけよう。「すばらしい内容を持つから古典となった」とか、「普遍的な価値があるから出典である」とかいった答えは、著者の疑問に対する答えとしては無力である。「古典とはすばらしい価値を有する書物である」と考える人が、以上のように答えるのは同義反復でしかない。

 また、『詩経』『論語』といった「古典」の成書問題、作者問題、あるいはその内容を論じたところで、これも著者の疑問に対する答えとはなしがたい。そうではなく、どういう人々が、どのような理由、経緯で、ある書物を古典の地位にまで高めたか、そのような行為を突き動かす力は何であったのか、それを知りたいのである。

 中国古典を研究していると、「中国古典にはそんなに素晴らしいことが書かれているのですか?」というような反応を受けることがあります。けれども私は、「内容が素晴らしい」と感じたから中国古典の研究をしているわけではありません。また、私は漢文を読むことが好きですが、その際に「この内容を人生の指針としよう」といった動機から読んでいるわけでもありません(たまたまそういう方向に心が振れる文章に出会うこともありますが)。

 私が知りたいことは、まさに「なぜ古典は古典となりえたのか」「古典はなぜ古典であるのか」という点にあるのですが、こうした背景がある以上、どうしても「すばらしい内容を持つから古典となった」という答えでは満足できないわけです。

 この私の感覚が、著者と同じなのかは分かりませんが、とにかく深い共感を覚える文章です。

 さて、ではどのように研究していくのか、という筆者の態度表明が以下です。

 このような疑問に答えるためには、書物のみを静的に研究するのみならず、書物と読者との相互関係を動的に究明することが重要である、という立場があるとして、それは一応もっともな考え方である。しかし、「書物と読者」あるいは「作者と読者」といった二分法はどこまで有効であろうか。作者・読者以外に、少なくとも、伝承者・編集者・解釈者・注釈家・公認者・書写及び出版者など、書物を取り囲む様々な立場にある人々の関与を注意深く見る必要があろう。特に中国古代・中古の書物史を考察する際には、伝承者や解釈者が、書物を如何に取り扱い、また、政治的な権力がそれを如何に認証していったのか、という流れに注意する必要がある。

 注釈の研究をしていると、当然、解釈者・注釈家に対する意識は強くなりますが、公認者・出版者、また伝承者・編集者といった存在は軽く見てしまうことがあります。または、注釈者を「読者」と見て、結局「書物と読者」という二分法の枠組みだけで研究を進めてしまう、という見方もできるかもしれません。

 私は、本段からそうした研究法に対する警鐘を読み取りました。より広い視点から、注意深く研究に当たらねばならないと、身の引き締まる思いを抱きます。

(棋客)