達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

瞿同祖『中国法律与中国社会』の紹介(2)

 瞿同祖『中国法律与中国社会』(中華書局、1981)、第四節「親族復讐」の翻訳の続きです。p.77~になります。

 今回は、中国における「復讐」行為について、その実例や、それに対する処罰を具体的に見ながら、整理するところです。

 『周礼』では、復讐に関する様々な規定が設けられている。復讐には法で定められた手続きがあり、復讐を専門に司る官吏もいる。事前に朝士処で仇敵の姓名を登録してさえいれば、仇敵を殺したとしても無罪になる。また、調人という官職は、復讐を避けて和解することを専門に司り、また復讐がただ一回限りのものであって、再度復讐を繰り返すことを禁止している。

 戦国時代、復讐を行う風潮はたいへん盛んであり、任侠の気風のもとで、義憤にかられた人が仇討ちのための刺客となった。『孟子』には、「吾今而後知殺人親之重也、殺人之父、人亦殺其父。殺人之兄、人亦殺其兄。然則非自殺之也、一閒耳。」とある。この一段は、孟子が自ら多くの復讐の事例を見て,心を痛ませ感嘆し、書かれたものであろう。先秦時代は、復讐の自由な時代であったといってよいであろう。

  この『孟子』の一段の朱子注は、「言今而後知者、必有所為而感発也」とあり、孟子の感嘆の意が表れていることを注意しています。

 まず経書の記述、先秦時代の記録から、中国の復讐行為を整理していき、次の段では漢代に入っていきます。非常に長い段落なので、読みやすいように段落分けを施しました。

 法律機構が発達してくると、生殺与奪の権利は国家のものとなり。私人が勝手に人を殺す権利もなくなり、殺人はそのまま犯罪行為となり、国法の制裁を受ける必要があるようになった。このような状況のもとでは、復讐は国法と相容れないものになり、徐々に禁止されるようになった。だいたい紀元前一世紀の法律において、既にこの種の努力が始められている。

 桓譚は、建武年間の初めに上疏し、「今人相殺傷、雖已伏法、而私結怨讎、子孫相報、後忿深前、至於滅戶殄業・・・今宜申明舊令・・・」(『後漢書』桓譚列伝)という。これにより、少なくとも前漢末にはすでに復讐を禁止する法律があり、桓譚は光武帝に対してすでにある法律を重ねて表明し、悪風が広がるのを防ごうとしただけであるということが分かる。近人の程樹徳は、王褒「僮約」を引いて、漢律は復讐を許していることを明らかにしたが、実は「漢時官不禁報怨」とあるのは後人の注釈であって、「僮約」の原文ではないから、証拠とするには足りない。一世紀の法律は復讐の企てを禁止しており、この努力が既に成功していたことは明らかである。

 例えば、緱氏の娘の玉は、父のために仇を討ち、県令はこれを死罪に処すところであったが、これを申屠蟠が諫めて、ようやく死罪を免じられた(『後漢書』申屠蟠伝)。

 また、趙娥の話が最も分かりやすい。彼女は父の仇を殺した後、県令に自首したが、福禄長の尹嘉は彼女に同情し、自身の印綬を放ち、自分も官位を捨て逃げる用意をした。彼女は同意せず、「怨塞身死、妾之明分、結罪理獄、君之常理、何敢偸生以枉公法」と述べた(『後漢書』列女伝、龐淯母、また『魏志』引皇甫謐『列女伝』)。この時、堂上の観衆が既に集まっており、守尉は公然と彼女を許す勇気がなく、彼女に自ら逃げるように仄めかしたが、彼女はやはり同意せず、抵抗して大声で「枉法逃死、非妾本心。今讐人已雪、死則妾分。乞得歸法、以全國體。雖復萬死、於娥親畢足、不敢貪生為明廷負也。」と述べた。守尉が執行を許さないと、娥はさらに「匹婦雖微、猶知憲制。殺人之罪、法所不縱。今既犯之、義無可逃。乞就刑戮、隕身朝巿、肅明王法。」と述べた。ここから、当時の法律では絶対に復讐行為を許すことがなかったことが分かる。だから、守尉は彼女に同情していたけれども、官位を捨てて犯人とともに逃げる以外に、彼女を救う方法がなかったのである。趙娥の話は、当時の法律における殺人の制裁が、復讐であっても決して例外にならなかったということを、その一言一句から物語っている。

 緱氏の話は安帝・順帝の頃、趙娥の話は霊帝光和二年のことであり、ここから少なくとも二世紀(後漢末)には復讐は国家によって禁止されていたことが分かる。・・・

 注釈は省略していますが、非常に細かくつけられています。 

 さて、漢代に入って復讐は国家権力によって禁止されたわけですが、だからといってすぐに根絶されたわけではなく、その風潮はまだ続いていきます。

 しかし、復讐の習慣は久しく人々の心にしみついており、すぐに簡単に禁止することはできず、再三再四戒めたが、依然として根絶することはできなかった。桓譚だけではなく、以後の王朝でも復讐に対して詔書を発布し、重ねて禁止とした。曹操、魏文帝、北魏世祖、梁武帝らが、みな復讐の禁止を詔している。魏律では、復讐の処罰を重くして族人まで罰する。北魏の制度が最も厳しく、復讐者の宗族までを罰するだけではなく、近隣の相助した者も同罪とする。北周時代の法律も、復讐者を死刑に処す。

  以下、進んで唐代以後の「復讐」に関する法律を述べます。

 唐宋の以後の法律でも、一貫して復讐は禁止している。唐律には復讐を認める規定がなく、共謀罪、故意に殺害した罪などがある。宋律も同じである。しかし、同時に一つの規定が付されており、子孫が復讐したものは、役人の上奏によって勅裁することが認められていた。これは法律としては復讐の権利を認めていないけれども、特殊な状況を考慮し、礼法に気を配って柔軟な方法を備えたものである。

 元律には復讐の規定があり、父が誰かに殺され、子が復讐した場合、無罪になり責任が問われないというだけではなく、父を殺した家は銀五十両を葬式の費用として出さなければならない。

 明清の律は元律に少々手を加えたものだが、祖父母・父母が誰かに殺されたときに、子孫が悲しみから突発的に仇を殺した場合には無罪になり得るが、事後にしばらくしてから殺した場合、この規定は適用されず、杖六十に処される。

 注釈を省略してしまってたので分かりにくいですが、一つ一つ実例に基づきながら、要領よく整理されていることは伝わるかと思います。

 次回、まとめの段落に入ります。

→次回はこちら

(棋客)