達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

李弘喆「世本探源―『世本』受容史研究序説」

 『史林』第101巻、第5号(2018年9月)掲載の李弘喆「世本探源―『世本』受容史研究序説」を読みましたので、簡単に内容をご紹介します。

  

 『世本』とは、上古から春秋時代にかけての王や諸侯の系譜、その周辺情報を記した本で、古くはよく資料として用いられた本であったようです。有名どころでは、司馬遷が『史記』を作る際に使っています。しかし、『世本』はその後散佚してしまい、今となっては完全な形で読むことはできません。

 一般に、ある本が消滅してしまった場合、「輯佚」という作業によってある程度復元できることがあります。「輯佚」とは、今も存在する他の本から、消えてしまったある本の引用を探し出して、集めて整理して原型を復元する作業のことです。

 『世本』の場合、『世本』そのものは今は失われた本ですが、『史記』や『漢書』の注釈や『五経正義』に引用される形で部分的に文章が存していて、これを集めるとある程度復元ができる、というわけです。こういう方法で復元された本を「輯本」と呼びます。

 こういった「輯佚」の試みは、特に清代以降に積極的に行われ、現代も続けられています。特に近年はデータベースの充実から、より綿密な輯佚が可能になっています。

 

 さて、この論文は、こういった輯佚作業によって復元された資料を元手に研究を行うことの危険性を冒頭で論じています。

 これら現代の研究の最大の課題は、輯本を『世本』原本の断片とみなして進められた点にある。そもそも『世本』輯本は、清朝考証学者が、伝世文献において『世本』の引用であると明示された箇所を集め、内容によって各篇に分類したものであるに過ぎない。実のところ、個々の佚文は長期間にわたって複数の引用者が選択したものであり、原文の表現が正確に保存されているとは限らない。『世本』輯本は『世本』原文そのものではなく、その「使用痕」に過ぎない。原本の断片として均質に扱いうるものではなく、『世本』に対する複数の引用者の認識が蓄積されたものに他ならない。(p.40)

 「『世本』輯本は『世本』原文そのものではなく、その「使用痕」に過ぎない」というのが眼目。輯佚作業によって集められた資料は、それぞれが違うレベルのものであって、それを一覧にまとめて均質に論じることには常に危険がつきまとうわけです。

 

 では、本論文ではどのようなアプローチを採るのか。

 「使用痕」のみに頼って現物の復元は到底できないが、その「使用行為」自体を対象として研究を進めていくことは可能である。このことを手がかりにまずは、『世本』が散佚するまでにいかに読まれたか、書物としていかに認識されていたかを検討して、最終的にその書物としての学術史的位置づけを明らかにしたい。(p.41)

 つまり、「使用痕に過ぎない」ことを逆手にとって、その「使用痕」を辿る研究を志向するわけです。この研究は、『世本』の引用のされ方の検討を通して、その文献における『世本』の使われ方、立ち位置を明らかにすることができます、言い換えれば、『世本』の受容史、学術史を明らかにするところに力点を置かれるわけです。

 

 以下、実際にこの方法から研究が進められるわけですが、その辺りは実際の論文をご確認ください。

 続篇に、「世本錐指 : 『世本』宋忠注をめぐって」(『東洋史研究』78(3), 409-441, 2019-12)があります。そのまま継続して、『世本』並びにその注釈の各時代における受容の在り方の研究が進められるようですので、楽しみにしたいと思います。

(棋客)