達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

アンヌ・チャン『中国思想史』(2)―「幾」について

 前回に引き続き、アンヌ・チャン『中国思想史』(志野好伸・中島隆博・廣瀬玲子訳、知泉書館、2010)の内容を紹介します。今回は、私の個人的な興味から、「幾」という概念について説明している部分を読んでみます。

 以下、第11章「易」の「幾」節、p.275-278からの引用です。この説は、以下の引用文(『易』繫辭下「子曰、知幾其神乎、君子上交不諂、下交不瀆、其知幾乎、幾者動之微、吉之先見者也、君子見幾而作、不俟終日」の翻訳)から始まっています。

 孔子は言った。「幾(わずかな糸口)を知ることは、神(精神)を大いに働かせることではないだろうか。君子は上位の者に阿らず、下位の者を手ひどく扱わない。これが幾を知るということである。幾は知覚できない動きの始まりであり、吉[もしくは凶]の真っ先に目に見えるしるしである。君子は、幾を見るや行動に移り、一日が終わるのを待つことはない」。

 この引用文について、筆者は先行研究を引きながら、以下のように説明しています。

 中国思想は、萌芽の状態にあるもの、まだ生まれていないものに大きな関心を払うが、その関心が最も完成した形で定式化されたのが『易』である。「『易』の占いの知識全体が、未来は萌芽の状能ですでに現在に含まれているという前提に基づいている。[…]たとえば「幾」という話は、占いの語法では、可能性、より正確には、非在が存在に結晶化する段階を指している*1」。幾(わずかな糸口、徴候)は、しばしば機(天のばね)という意味で捉えられる。幾にしても機にしても、静から動へのわずかな瞬間、潜在的な力が現実的な行為に移るわずかな瞬間に、事物にはずみをつけるものである。「純粋な潜在状態と完全に現実化された状態の間には、それを媒介する段階がある。その段階で要求されるのは、予知と修正を同時に可能にするような配慮である。プロセスの展開を(あらかじめ定められたモデルによって)コード化することはできないにしても、その位置を割り出し、分析することはできる。したがって、ある程度まで、それは変更可能である。『易』の注釈が、始まりの段階という概念に関心を払うのは、それを通じて、人が流れの中にある生成変化を実際に了解し、それを統御しうるようになるからである((Francois JULLIEN, Proces ou Creation. Une introduction a la pensee des lettres chinois (Essai de problematique interculturelle, Paris, Ed, du Seuil, 989, p.209.)))」。

 中国古典における「聖人」が語られるとき、そこに現代でいうところの「未来予知」に秀でているというイメージが付与されていることがよくあります。ただ、これをもって直ちに「神秘的」「宗教的」などと称するのには問題があることが、上の一段を読むと分かります。

 つまり、その通底には「未来は萌芽の状能ですでに現在に含まれている」という前提があり、天地の流れと一体化した者は、未来は当然に認識可能なものということになります。続きの詳しい説明を見ていきましょう。

 「幾」(わずかなもの)、「微」(微細なもの)、「精」(精髄)、「端」(萌芽)、言葉は違っても、それらは同じ一つの概念、とりわけ医学の分野で用いられる概念を示している。実際あらゆる医術は、きわめて微細な徴候を識別し、解釈することから始まる。病気がほんの初期の段階、もしくは病気とも認められないような段階でそれができれば、その診断は適切である。より一般的に言うと、それがどんなものであれ、決して固定した与件ではなく、ある結果の予兆(あるいはイメージ、「象」)である。すでに存在するものも、まだ完全に存在しているわけではないという意味で、萌芽の状態にある。このことを理解した人は、「髪の毛一本分の差が千里の間違いを招く」〔『礼記』経解篇に引く『易』の佚文〕という事実を単純に確認することから始まる。また、「愚者は到来したものすら見ないが、智者は萌芽にもなっていないものを見るという点で、凡俗とは異なっている。これと同様に、『老子』も、形を取る前(未形)の、現成(成)する前の現象に注意を向けていた。

 『礼記』経解篇に引く『易』の佚文とは、「易曰、君子慎始、差若豪氂、繆以千里。此之謂也」のこと。(この一文について、狩野直喜か誰かの研究があったと思うのですが、いま忘れてしまいました。)

 以下、『老子』第六十四章「其安易持。其未兆易謀。其脆易泮。其微易散。為之於未有。治之於未亂。合抱之木、生於毫末。九層之臺、起於累土。千里之行、始於足下。……慎終如始、則無敗事」の引用があります。

 安らっているものは手に取りやすい。
 まだ兆していないものは先手を打ちやすい。
 脆いままのものは壊しやすい。
 微細なものは散じやすい。
 行動はまだ存在しないものにおいて行う。
 治は乱の前にうち立てられる。
 両腕でかかえるほどの大木も毛先ほどの萌芽から生じる。
 九階建ての高楼も小さな盛り土から起こる。
 千里の道行きも自分の足下からはじまる。[…]
 萌芽に注意するように終わりにも注意すれば
 失敗することはない。

 ここまで、現在が含んでいる未来の萌芽としての「幾」が、分かりやすく説明されていますね。そしてここから、中国における自然・倫理の問題へと繋げるのが面白い説明の仕方だと思います。

 幾は、潜在的なものから現れたものへのほとんど知覚できない移行を表すだけではなく、自然と倫理の連続性をも表している。つまり、「そうあるべきこと」〔倫理〕が直接「そうであること」〔自然〕に由来するのである。これは「中庸」の冒頭でも語られている。

 そして、「中庸」の有名な一節を引用しています。

 喜怒哀楽がいまだ表に現れていない(未発)ものを、中(まん中で平衡を保つこと)と言う。表に現れて(已発)節度にかなっているものを、和という。中は天下の大本であり、和は天下の普遍的な道である。中と和がきわまると、天地は正しい位置を占め、万物が育まれる。

 「中庸」の引用は「喜怒哀樂之未發謂之中。發而皆中節謂之和。中也者、天下之大本也。和也者、天下之達道也。致中和、天地位焉、萬物育焉」で、特に朱子学で非常に重要視される一文です。詳しくは、福谷彬『南宋道学の展開』などを読んでみてください。

 私はこの一節には朱子学の文脈の印象が強いので、「幾」の話から「未発」につなげて理解するのは新鮮であり、また少々分かりにくいところでもあります。もう少し続きを見ておきましょう。

 悪しき欲望の出現、もしくは、いわゆる悪の問題は、未決定で静かな状能から活発で動いている状態への移行において考えられている。中国的な見方では、生を妨げるもの、気のめぐりを妨げるものは、すべて悪である。別の言い方をすれば、固まらせるもの、決まった形に硬化させるものは、すべて悪である。紀元前2世紀の道家思想の集大成である『淮南子』は、次のように述べていた。

 以下、『淮南子』原道訓の「人生而靜、天之性也。感而後動、性之害也。物至而神應、知之動也。知與物接、而好憎生焉、好憎成形。而知誘於外、不能反己。而天理滅矣。故達於道者、不以人易天」を引用し、結びとしています。

 人は生まれながら静であり、その本性は天から授かったものである。事物に感じると人に動が生じ、その本性が害される。物が現れると精神が反応し、知覚は動の状態となる。知覚によって人が事物と接触すると好悪が生じ、事物に対して好悪が形を取る。すると知覚は外部に引き寄せられ、もはやそれ自体には戻らない。こうして人の天理(天の秩序)が滅びる。道に通じた人は、人を天と交換しはしない。

(棋客)

 

*1:Jean LEVI, Les Fonctionnaires divins, pp.35-36