達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

E.H.カー『歴史とは何か』

 今日は、不朽の名著E.H.カー『歴史とは何か』(岩波新書、1962)を紹介します。タイトルの通り、「歴史」とは何か、歴史研究はどのように進められるか、歴史を学ぶことの意義はどこにあるのか、といったことが平易に説明されています。清水幾太郎氏の訳文が非常に読みやすいですので、あらゆる人に読んでほしい一冊です。

 少しだけ、内容を紹介します。

 

 まず、「歴史」とは「事実を客観的に編纂したもの」であるか「歴史家の心の主観的産物」であるかという問いについて論じる第一章で、以下のように述べています。

 極く普通の考えでは、歴史家はその仕事を二つの明確に区別され得る段階あるいは時期に分けているようであります。すなわち、先ず、歴史家は史料を読み、ノートブック一杯に事実を書きとめるのに長い準備期間を費し、次に、これが済みましたら、史料を傍へ押しやり、ノートブックを取り上げて、自分の著書を一気に書き上げるというのです。

 しかし、こういう光景は私には納得が行きませんし、また、ありそうもないことのように思われます。私自身について申しますと、自分が主要史料と考えるものを少し読み始めた途端、猛烈に腕がムズムズして来て、自分で書き始めてしまうのです。これは書き始めには限りません。どこかでそうなるのです。いや、どこでもそうなってしまうのです。そこからは、読むことと書くことが同時に進みます。読み進むにしたがって、書き加えたり、削ったり、書き改めたり、除いたりというわけです。また、読むことは、書くことによって導かれ、方向を与えられ、豊かにされます。書けば書くほど、私は自分の求めているものを一層よく知るようになり、自分が見い出したものの意味や重要性を一層よく理解するようになります。(p.37)

 …「インプット」および「アウトプット」と呼ぶような二つの行為が同時に進行するもので、これらは実際は一つの過程の二つの部分だと思うのです。みなさんが両者を切り離そうとし、一方を他方の上に置こうとなさったら、みなさんは二つの異端説のいずれかに陥ることになりましょう。(p.38)

 …歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の普段の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。(p.40)

 歴史家は、歴史事実を客観的に語る存在ではないが、ただ歴史家の主観に沿って歴史を記述するわけでもない、ということです。どちらかが上位に来るものではなく、両者の相互作用の繰り返しによって紡がれたものが「歴史」なのです。

 資料と原稿を行ったり来たりしながら執筆を進めていくという光景は、研究者には身に覚えがあるものでしょう。私も、先日鄭玄の歴史記述を試みた際、同じように執筆しました。しつこいですが、またまた宣伝しておきます。

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 続いて、第二章で、歴史の研究対象もその語り手である歴史家も、人間社会に属し、その環境の影響を必ず蒙ることが述べられています。すると、歴史の記述は、「個人」(歴史家)と「個人」(研究対象)の対話ではなく、「今日の社会」と「昨日の社会」の間の対話によってなされる、ということになります。

 例えば、私が漢代の劉邦について歴史を書くとしましょう。劉邦という一個人は、漢代の社会の中で生まれた存在であり、「劉邦」について記述を試みようとすれば、その社会全体から丸ごと説き起こすことになります。しかし、こうして記述を試みる「私」も、現代社会に属する人間であり、その研究態度には必ず私自身の生きてきた社会・環境が反映されています。

 まあ、漢代と現代なんて言わなくても、数十年前の研究を見るだけで「ああ、時代だなあ…」と感じることはよくありますよね。また、最近でも「実証主義を素朴に信じすぎているのでは?」と言いたくなるような事例はよく見かけるものです。

 

 全体として、具体例を出しながら噛み砕いて説明されており、緻密な内容のある本です。同時に、本質を掴んだまとめの言葉が魅力的な本でもあります。その一つを引用して、締めの言葉といたしましょう。

 歴史家というのは、「なぜ」と問い続けるもので、解答を得る見込みがある限り、彼は休むことが出来ないのです。偉大な歴史家―というより、もっと広く、偉大な思想家、と申すべきでしょう―とは、新しい事柄について、また、新しい文脈において、「なぜ」という問題を提出するものなのであります。(p.127-128)

(棋客)

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