達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

佐々木愛「儒教の「普及」と近世中国社会―家族倫理と家礼の変容」

 最近出版された、『東アジアは「儒教社会」か? アジア家族の変容』(京都大学学術出版会、2022)という本を入手して少しずつ読んでいます。

 今回は、第一部・第二章に収録されている、佐々木愛氏の「儒教の「普及」と近世中国社会―家族倫理と家礼の変容」の一節をご紹介します。

 ここは、儒教を普及させるにあたって、支配者層の側と一般庶民の側との両方に大きな困難があるという話の流れです。そのうち、一般庶民の側が儒教を受け入れるに当たっての困難を説明するのが下の部分です。以下、p.50-51から引用します。

一方、下からの、すなわち一般庶民が儒教を学びたい、儒教の教えに沿って生きていきたいと思う契機になる仕組みが儒教の教養にあるだろうか。庶民にとっては残念なことに、儒教には救済という仕組みがない。儒教では病気がなおるわけでも、この世でユートピアが到来することもない。科挙合格という学問に関することですら、孔子朱熹は祈願の対象にならなかった。孔子朱熹は学祖であり尊敬の対象ではあったが、超越的な力を持つ神ではなかった。科挙合格を目指す受験生が祈願したのは、道教信仰と結びついた北斗七星第一星であるところの魁星だったのである。また儒教では現世の人生がいかに苦しくとも、来世での希望を持たせてはくれない。死後は子孫によって祖先祭祀されることが必須であるということは、死後も現世での家族関係は変更できないという仕組みなのである。この世で夫婦であればあの世でも夫婦として、子孫から定期的に扶養(=祭祀)をうけなければならず、「来世では金持ちの家に生まれて美女を娶る/玉の輿に乗る」などという夢を見ることはできない。

 ここを読んで思い出したのは、以前ブログで紹介した栗林氏の本です。

 栗林氏は、「受難の象徴」であると同時に「解放の象徴」としてイエスを見る、荊冠の神学を提唱しています。しかし、儒教において孔子がこのような存在としてとらえられることは、なかなか難しいように思います。そうした相違が生まれる要因として、救済の仕組みの有無は大きな要素の一つと考えられるでしょう。

 そんななか、一般庶民が儒教を学ぶメリットとして、佐々木氏が挙げるのが親孝行の倫理です。

ただし、「親に孝」を子どもに教え込むことができれば、特に老後は子どもによる扶養が期待されるから、この点は現実的合理的なメリットがある。誰も行ったことのあいあの世での幸福が語られるよりも、現世での親孝行を語る教えの方が現実的合理的といえよう。しかし儒教の「親に孝」といった通俗道徳は仏教や道教側も受容し発信したから、儒教でなくともそのメリットは享受できた。

 しかし、佐々木氏のいうように、親孝行の倫理は中国の仏教・道教に取り込まれていきますから、儒教以外からも受容することができます。このことについては、以前論文を紹介したことがあります。→吉川忠夫「孝と佛教」―論文読書会vol.2 - 達而録

 佐々木氏の文章は、ここから、ではどのように儒教が広い層に浸透していったのか、ということを論じていきますが、このブログで取り上げるのはここまでにしておきましょう。

 

 さて、儒教に救済というシステムが組み込まれていないのは、結局のところ、儒教は救済を必要とする人々によって作られたものではないからだ(むしろそうした人々を搾取するために作られたものだ)、という結論に行き着くでしょう。中国における革命が、しばしば(非儒教の)宗教的なつながりをともなう人々の反乱によって起こったのも道理です。

 もちろん、儒教にも色々な側面があるわけで、朱子学には宋代の士大夫の主体性の表れを見出すこともできますし、近代化の中ではいわゆる「大同思想」を孔子の教えとして説く流れも現れたりします。このあたりは、儒教の前提を踏まえながら、実際の歴史上の展開をつぶさに見ていく必要があります。

 

 佐々木氏の文章は、以前、ウィキペディアで「中国の女性史」という記事を執筆した際にも利用させていただきました。→Wikipedia執筆で使った本の紹介 - 達而録

 また、朱子学朱熹については、以下の講義動画がおすすめです。【良質講義動画紹介】「官僚哲学者・朱子、混迷の政界に立ち向かう」 - 達而録

(棋客)