達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

倉石武四郎「清朝小学史話」

 本ブログでは、たびたび『説文解字』の版本に関する話をしてきました。

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 今回は、倉石武四郎の「清朝小学史話」(『漢字・日本語・中国語 倉石武四郎著作集第二巻』くろしお出版、1981)のp.302~p.306から、清代における『説文』小徐本の状況について整理してみます。

 少し復習しておきますと、もともと『説文』には二系統の版本が存在します。南唐北宋の頃、徐鍇が『説文』原文に校定と注を附し、『説文解字繋伝』を作りました。これが「小徐本」です。そしてその後、兄の徐鉉が『繋伝』に更に校定を加えました。これが「大徐本」です。

 大徐本は、明末清初の頃に汲古閣で覆刻され、徐々に広まり始めます。しかし、小徐本は埋没した状況が続き、入手困難な状況が続いていました。今日紹介するのは、この頃の学者と小徐本との関わりについての話です。

 大徐本はかくして天下に風行したが、ひとり小徐本は久しく埋もれて世に知られなかった。たとえば乾隆三十四年、かの説文理董の著者呉穎芳が年六十八で銭塘の汪憲の振綺堂に寄寓した際にも、小徐本は善本に乏しいことを憾みとしていた。当時、同じ杭州の蔵書家として聞こえた郁氏のところにも小徐の鈔本は儲えられていたが、字体も悪く脱落もあり句読さえできかねたと云われ、小徐の善本を求めることは学者と云わず蔵書家と云わず誰しも念願とするところであった。

 今日のお話は、清代の学者たちが念願の小徐本の善本を入手し、また善本の間で校勘を加え、覆刻されて世に広まるまでの話です。

 たまたま振綺堂の客であった呉江の潘瑩中(潘耒の孫)のことばに、自分の親戚で蘇州の南濠に住む朱文游が影朱鈔本繋伝を所蔵しているとあったので、汪憲は大いに喜んで、三十四年も十月の末つかた、これも振綺堂に寄寓中の朱文藻(仁和の人で呉穎芳について学んだ、時に三十五歳)を遣わして借り受けることにした。はじめ潘瑩中との約束では、あらかじめ瑩中が朱文游の家に行って借り出し呉江の自宅に置いておくということであったので、朱文藻は船を雇ってただちに呉江をさして出かけた。潘氏は呉江の大船坊に住んでいたが、さすが土地の名族とて、船を棄ててから半里ばかり、村という村はすべて潘という姓である。やがて瑩中の家に着いたが、たまたま瑩中は外出していて、その置きてがみには直接南濠まで取りに行ってくれと書いてあった。そこで文藻はかさねて南濠にむかい、朱文游の家をたずね、好き機会とばかり、あまねくその蔵書を拝見した。

 お目当ての本を探す朱文藻の執念を感じる逸話です。

 朱文游の蔵書の堂は三つあって、一つは宋元板、一つは旧鈔本、も一つは精刻精鈔本を満たし、近ごろの庸劣な書物は一冊もまじっていない、まことに蔵書家の鉅観というべきである。その日も暮れて、待望の繋伝を借り受け、夜は振綺堂の友の蘇州盤門百花洲に住む陳逸樵の家に宿り、翌日あらためて船を雇い、逸樵もともども杭州に帰った。それから後、朱文藻は手ずから繋伝を写すとともに、繋伝考異四巻附録二巻を著し、これを汪憲に示した。汪憲も大いにこの著述を喜び、これを秘笈に収めて容易には他人に見せなかったと云う。

 ここまで、朱文藻が朱文游のもとから小徐本を借り受け、『繋伝考異』を著し、汪憲に示したという話。

 はじめ山陽の呉玉搢も繋伝に興味を持ち、かつて呉郡の薄自昆から借りて門人を手わけして写しとっておいたが、後に東海の徐堅がさらに呉玉搢に借りて写しとったことがある。そこで呉穎芳も徐堅から借りる交渉を試みていたところ、早くも朱文游の蔵書を見ることができて眼福を喜んだが、つづいて三十七年の秋には徐堅がみずから秘蔵の鈔本を携えて杭州に遊び、振綺堂で呉穎芳に面会し、さきの朱文游本と校対した。呉氏がさきの説文理董の後篇(南学國学図書館の景印本に拠る)を著し、多く小徐の説を採りいれたのはこの一段の因縁によるのである。

 薄自昆→呉玉搢→徐堅の手に渡った小徐本が、朱文游→朱文藻→呉穎芳と渡った小徐本と出会い、対校されるシーンはなかなか感動的です。本と本が一期一会だった時代、彼らは一つの異同の見逃しもないように、命を賭けて校勘したのでしょう。

 これよりさき乾隆三十六年に汪憲は五十一歳で没したが、その翌年のこと、朝廷では四庫全書館を開き天下の遺書を採訪すべき旨の詔が下された。そこで杭州の蔵書家もみな踴躍して秘蔵の書籍を進呈した。この時の振綺堂の当主は汪憲の長子汪如瑮であって、まづ儲蔵の善本二百余種をさしだした。すべて浙江巡撫の手で纏められたものは五千余種にのぼったと云う。しかし巡撫はなおこれに満たず、その選び残りの中から更に百種だけ選ばうと考え、各蔵書家にその旨を通達した。ところが五千余種のほか更に百種を加えることはなかなか困難なしごとで、振綺堂でいろいろ尋ねあぐんだ末、ふと汪憲が生前秘笈に収めておいたものを開いたところ、料らずも繋伝考異ならびに附録が現れた。これこそ亡父の遺著に相違ないというわけで、考異には汪憲の名を記し、附録だけは時々朱文藻の案語が見えるのでこれは文藻の名を記して進呈した。それが四庫全書本の考異に誤って汪憲の提題されたいわれである。附録は四庫館の意見で、上巻だけ採って下巻は削られた。

 『四庫提要』の該当箇所の原文は以下からどうぞ。確かに、「汪憲」の名が冠されています。

全國漢籍データベース 四庫提要 說文繫傳考異 四卷 附錄 一卷

 さて四庫全書に採録された繋伝は、四庫の総纂官紀昀の家蔵本によったものであるが、たまたま四庫全書の完成した頃、おりから京師にあった戦場の汪啓淑が四庫の中の繋伝の稿本を見て、これを愛するのあまり広く世に伝えたいと考え、旧鈔本数種を合わせて乾隆四十七年というに小徐の繋伝を刊行した。これが宋より以後、小徐本の刊行された初めであり、大徐本の刊行に比べて少くとも七十年ほど遅れている。もっともこの本は、巻二十五は昔ながらに闕巻のままで、そこは大徐本で足してあるし、その他の巻の闕文も大徐本から取った形跡があって、それは反切の文字を比較しても容易に分かることであり、示部などは徐鉉の新附字まで竄入してあること、すでに人々の注意しているとおりである。またこの本はすべて朱文藻の考異によって校改され、附録一巻もそのまま採録されている。

 これが、小徐本の代表的な刊本のうちの一つである「汪啓淑本」です。

 その後、汪啓淑は郷里杭州に帰ったが、やがて世を去り、その飛鴻堂や開万楼に満ちていた蔵書も今は跡かたもなく散りはて、生前はことに愛撫した繋伝の版も行きかた知れずなってしまった。その頃はかの朱文藻もすでに七十の老翁となり、ふと懐旧の想いにまかせ、ふたたび南濠を訪れたが、朱文游の蔵書はすでにことごとく他人の手にわたり、その家までも他姓に帰している。さらに百花洲に立ちむかい陳逸樵の宅を問うたが、ありし頃の道すじさえさだかならず、三十年人事の転変に今昔の感を深うした。しかも書生の結習はなお忘れがたく、嘉慶十一年七十二歳にして王昶の家に寄寓した時、はじめて汪啓淑の重刊繋伝を見て、ふたたびこれを己の旧作の考異と校合し、遂に考異の増訂本を作りあげた。朱文藻にちなむこの物がたりは詳かに考異の増訂本の序中に記され、読む人の感慨をそそるものがある。

 一度やり遂げた仕事を、新しく汪啓淑本が出たことで再度増補した朱文藻の、小徐本に対する情熱を感じる逸話です。

 なお汪啓淑の繋伝は同じく乾隆中に馬俊良の竜威秘書に再刻されているが、越えて道光十九年、時の江蘇学政の祁寯藻の手によって精密な校定本が作られた。はじめ祁氏は段注説文によって顧千里・黄丕烈の家に旧鈔繋伝の善本を伝えていることを知っていたので、着任とともに時の暨陽書院の山長李兆洛にこの書物のことを問うた。元来李兆洛は顧千里と同学のよしみがあり、顧千里が没したときその墓誌銘も書いてやったし、顧千里の孫の瑞清は李兆洛の門生でもあったから、てがみを送って顧氏の鈔本を借り、汪啓淑・馬俊良の本を校正した。

 小徐本の刊本として代表的なもののうち、もう一つがこの「祁寯藻本」です。この本については、以前整理したことがありますのでご参照ください。

小徐本「祁寯藻本」についての記事の訂正 - 達而録

 時に蘇州の蔵書家として聞こえたのは汪士鐘であって、黄不烈の百宋一塵の宋本はほとんど汪士鐘の藝芸書舎に帰したと云われていた。李兆洛は汪士鐘の所蔵の南宋刻本繋伝に目をつけ、ぜひ借り受けたいと頼んだが、汪士鐘はわづかに第四函すなわち三十二巻から四十巻までを齎したばかり、そのほかは所蔵しないと云ってことわった。とは云え、この宋刻本こそは顧千里の鈔本の源流であることがわかり、心中さすがに喜びに堪えなかったと云う。

 この校定のしごとは李兆洛を首班とし、その門人の承培元・夏灝・呉汝庚がこれを担当し、苗虁や毛嶽生も智恵を貸したようである。この小徐本校刻の事業が江蘇学政の祁寯藻によって完成されたことは、ちょうど朱筠が安徽学政として大徐本を校刻したことと同じ動機に出づるもので、いわゆる「雙美の挙」として長く語り伝えられている。

 学政とは、その地方の教育・学校に関する行政を司る役職です。

 以上が、清代の小徐本の出版に至るまでの顛末を説明する部分でした。

 そして最後に、四部叢刊(民国期に善本を集めて影印したシリーズ)での小徐本の版本について説明されています。

 なほ近年上海商務印書館で編印した四部叢刊に収められた繋伝は、はじめ銭遵王の鈔本に拠っていたが、次ぎに善本と改換した時には、その三十巻以後を宋刻本に代えた。この宋刻本は常熟の瞿氏の鉄琴銅劒楼の蔵書であるが、蔵書印によって見れば黄丕烈・汪士鐘の手を経ていること明らかで、つまり汪士鍾が隠して見せなかった三十、三十一の二巻がはじめて公開されたわけである。しかも黄・汪の二家以前に遡れば、かの明の寒山趙氏の故物であったこと、巻首に残る「呉郡趙宦光家経籍」の八字の陰文方印がたしかに証明している。これによっても明の蔵書家が絶えむとする学術を暗黙の間に保護してくれていたことが分かるわけであり、説文長箋の疏陋もあるいは償ってあまりあるとも云えよう。

 以前の記事で、「同じ四部叢刊本でも、初印本と重印本で異なる部分があるそうですが、この辺りはまだ整理できていません」と書きましたが、こういった事情があったのですね。

(棋客)