達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

小徐本「祁寯藻本」についての記事の訂正

 先日、木津祐子先生の論文京都大学蔵王筠校祁寯藻刻『説文解字繫伝』四十巻について」(『汲古』78号、p.21-28、2020-12)に、本ブログへの言及があると知り合いに教えていただき、驚きでひっくり返りました。確認してみると、筆者が以前書いた記事の誤謬をご指摘いただいており大変お恥ずかしいですが、論文で言及していただいて嬉しい限りです。 ※雑誌『汲古』バックナンバーのページ

 このような事情から、今回は以前の記事の訂正になります。また、最近新たに公開された『説文』の版本や研究もありますので、ここで合わせてご紹介いたします。

 

 本ブログでは、しばしば『説文解字』の版本について整理をおこなってきました。→ 「『説文解字』公開画像データ一覧【改】 - 達而録」など

 その中で、『説文解字』の小徐本(説文解字繫伝)の代表的な版本の一つである「祁寯藻本」について、人文研・京大文学部図書館に蔵されている版本の種類を調べて載せておりました。→『説文解字』小徐本「祁寯藻本」について - 達而録

 ところが、この記事の調査結果に誤りがあり、木津先生の論文でこの点をご指摘いただいています。以下でご説明します。

 


 

 「祁寯藻本」は道光十九年に刻された刊本ですが、その後に何度も修補を経ており、印刷時期によって微妙に、また大きく字句が異なります。郭立暄『中國古籍原刻翻刻與初印後印研究』(中西書局、2015)では、これを印刷順に初印甲本、初印乙本、初印丙本、初印丁本、後印甲本、後印乙本、後印丙本に分別しています(それぞれの相違は以前の記事を参照)。

 そこで、人文研・京大文学部図書館の『説文解字繫伝』のA本(人文科学研究所図書館 東方 經-X-2-15)、B本(人文科学研究所図書館 東方 經-X-2-16)、C本(文学研究科図書館 中文 A Xg 4-2)がどれに当てはまるのか調べたのが以前の記事です。

 

 以前の記事では、A.初印丙本、B.後印丙本、C.初印乙本としていましたが、このうちC本が誤りで、正しくはC.初印甲本です。つまり、もう一段遡る、最初期の版本だったということになります。

 また、完全に書き忘れていたのですが、さらにD本(文学研究科図書館 中文 A Xg 4-3)が存在し、これは後印丙本に当たります。

 以上、謹んで訂正いたします。木津先生、ありがとうございました。

 

 木津先生の論文の内容は多方面に亘っていますが、その中の一つに、上の二種の後印丙本(BとD)が、実は他の後印丙本と異なる特徴を持ち、郭氏のいう「後印丙本」は更に二分されると指摘するところがあります。BとDは、後印丙本の中でも更に新しい時期に印刷された本ということになるようです。

 以前の記事で、私が行った作業は郭氏の作った異同表をもとに確認しただけで、実は郭氏の分類ではどこにも入らない新種の印本という可能性もあると無責任に書いていましたが、本当にそうだったとは思いもよりませんでした。これを確かめるためには全ての字句を細かく確認せねばなりませんから、当たり前ですがたいへんな作業が必要です。

 また、続稿にて、顧千里の『説文』校勘に関する議論が取り上げられるということで、こちらも楽しみにしております。(ちなみに本ブログでも、顧千里と段玉裁の論争を紹介したことがあります。→顧千里『撫本禮記鄭注考異』と段玉裁(1)

 


 

 続いて、最近のニュースです。まず、上に紹介したB本は、昨年の七月ごろ、人文研の「東方學デジタル圖書館」にて画像公開されています。→說文解字繫傳 四十卷 坿 校勘記 三卷

 さらに、問題となったC本が、去年の十月ごろ、「京都大学貴重資料デジタルアーカイブにて画像公開されています。→説文解字繋傳 40卷 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ 

 ブログで扱った直後に貴重な版本が立て続けに公開されて、これまた嬉しい限りです。もともと祁寯藻本の公開画像はほとんど皆無でしたので、大きな価値があると言えます。

 祁寯藻本の「初印本」と「後印本」の間で校勘記が付け加わり、その後も更に多くの修正がなされました。同じ版本ですから見た目はそっくりなのですが、細かく見てみると字句の修正が入っているのは面白いものです。上の二種の画像公開により、図らずも、祁寯藻本「初印本の中でも最初期の本(C)」「後印本の中でも最末期の本(B,D)」が揃ったということになります。興味のある方は、ぜひ眺めてみてください。

 


 

 さて、『説文』の版本研究は近年非常に盛んで、こうして新たな画像公開も進んでいるほか、論文も多数発表されています。そのうち、鈴木俊哉先生に教えていただいた董婧宸先生「毛氏汲古閣本《説文解字》版本源流考」(『文史』、2020-08-01、CNKI)にはたいへん啓発を受けました。

 まだ内容を消化しきれていませんが、汲古閣本の前後の版本状況を図版とともに詳細に整理し、また近年の中国・日本の研究を丁寧に踏まえながら、全面的な記述がなされています。以前、高橋由利子先生が疑問を提起していた版本の正体を明かしている部分もあります。また、末尾には汲古閣本関係の版本全体の系統図も示されています。汲古閣本に関する決定版の研究の一つと言えるのではないでしょうか。

 特に、汲古閣本の源流に迫る部分について、簡単な要約を以下に示しておきます。

 

 汲古閣本の祖は、趙均(1591-1640)の抄本です。これは、当時通行していた李燾『説文解字五音韻譜』明刊本と、趙宦光(1559-1625)旧蔵の宋本『説文解字を基礎として作られました。趙均抄本は、篆文と正文は『五音韻譜』明刊本(当時の通行本)を用いており、これを宋本『説文』の配列を参考にしながら切り貼りすることによって、作られたものでした。つまり、これは摩耗が大きかった趙宦光蔵の宋本『説文』を、通行本『五音韻譜』を使って作り変えたものだったようです。

 これまで、趙均抄本は宋刊大字本をもとにしていると考えられることが多かったようですが、むしろその篆文や字句は、『五音韻譜』明刊本に拠るものであったということになります。(このこと自体は、本論文以前から指摘があったようですが、ここでより詳細な考証がなされています。)

 汲古閣本は、この趙均抄本を底本とし、毛晋(1599-1659)と毛扆(1640-1713)の手によって制作されました。この間に何度も修補がなされながら印刷が試みられ、最終的に第五次修改本によって完成しました。その修正の過程を追うのは容易ではありませんが、材料がある以上は不可能というわけではありません。

 董氏は、汲古閣本を毛試印本、毛初印本、毛剜改本などに分別し、それぞれの修補において主に用いられた材料を事細かに論証しています。大雑把に言えば、汲古閣本は例の趙均抄本によって基礎が作られ、その上に宋本『説文』、宋本『繫傳』による修正を加え、更に『玉篇』『広韻』『類篇』など多数の書籍の『説文』引文をもとに細かな修正を加えて作られています。

 清儒たちはよく、『五音韻譜』による『説文』改編を、『説文』の原貌を失わせたものであるとして深く嘆いています。しかし、汲古閣本を辿ると結局『五音韻譜』(しかも明刊本)の再配列本にたどり着くというのは、なんとも皮肉な結果です。

 こうなってくると、最初に紹介した 「『説文解字』公開画像データ一覧【改】 - 達而録」 も、更に改訂版を作らなければならないことになりますね。苦笑

 


 

 汲古閣本にせよ、祁寯藻本にせよ、これだけ版本が豊富に残っていると、奥深い研究ができるものですね。版本研究はどうしても現物を相手にせねばならないものですから、現物が残っていなければどうしようもない分野です。また、『説文』では文字の出入だけではなく、篆字の形の相違など注目できるポイントが多い上に、基準となる宋本が現存しています。他に、清朝考証学者はどの段階の版本を用いていたのか、といった方向の研究も可能でしょう。私は専門というわけでは全くありませんが、このように材料が豊かな状況を考えると、『説文』は版本研究として理想的なフィールドの一つなのかもしれません。

 末尾になりますが、実は以前、鈴木俊哉先生に謝辞で本ブログに言及していただいたこともありました。本ブログを取り上げていただいた木津先生、鈴木先生に改めて感謝申し上げます。(この訂正記事でまた誤りを重ねていないか、不安で仕方がないですが…)

(棋客)