達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

廬江何氏鈔本『文史通義』について

 最近、機会に恵まれて、章学誠『文史通義』を「廬江何氏鈔本」という本を用いて校勘しながら読んでいました。今回は、この鈔本の面白いところを紹介します。

 本題に入る前に、前提知識を整理しておきましょう。『藏園訂補邵亭知見傳本書目』によれば、章学誠『文史通義』の版本として以下が記載されています。

『藏園訂補邵亭知見傳本書目』卷十六、史部十五、史評類

・文史通義八卷校讐通義三卷
 道光十二年章氏刊章氏遺書本、咸豐元年刊粤雅堂叢書本

・文史通義九卷校讐通義四卷
 民国十一年劉承幹嘉業堂刊章氏遺書本

 道光本とは、章氏の次子の華紱が刻した本で、「大梁本」とも呼ばれています。『文史通義』はこの道光本が基準とされることが多いのですが、版本によっては異同も多く(特に嘉業堂本)、どの字句が正しいか校勘して考える必要があります。

 ここまではどれも『文史通義』の「版本」(木版印刷された本)ですが、『文史通義』の重要な「鈔本」(手書きで書き写された本)に「廬江何氏鈔本」があります。

 この鈔本の冒頭には「士禮居藏」の印があり、もと黄丕烈の藏書であったらしく、その後は江標、盛宣懐といった人の手を経て、現在は華東師範大学図書館に藏されています。2019年、「華東師範大学図書館蔵珍稀文献叢刊」というシリーズの一冊『廬江何氏鈔本《章實斎文史通義》』として、全頁の画像版が出版されました。

 この書籍の末尾には、王園園「廬江何氏鈔本《章實斎文史通義》研究」という論文が掲載されており、この鈔本の特徴が解説されています。

 

 最近、「廬江何氏鈔本」を他本と校勘しながら眺めていたのですが、版本の系統の『文史通義』とは異なる内容を多く含み、また篇の順番も大きく異なっています。しかも、なかなか興味深い異同が多いのです。『文史通義』を読解する上で、ぜひとも参考にするべき資料と言えるでしょう。

 今回は、そんな「廬江何氏鈔本」の文章を一部紹介します。王園園氏の論文と重なる内容もありますが、ご容赦ください。

 

 さて、道光本では『文史通義』内篇三に収録されている、「假年」篇の冒頭(道光本)が以下です。

(道光本)

  客有論學者,以謂書籍至後世而繁,人壽不能增加於前古。是以人才不古若也。今所有書,如能五百年生,學者可無遺憾矣。計千年後,書必數倍於今,則亦當以千年之壽副之。或傳以爲名言也。余謂此愚不知學之言也。必若所言,造物雖假之以五千年,而猶不達者也。

 「『文史通義』内篇三譯注」(『 東方學報』95、2020、オンライン公開有り)を利用させていただき、翻訳をそのまま載せておきます。

 客に学問を論じる者がいて、彼が考えるには、書物は後世になって繁多になったが、人間の寿命は過去の時代より増やすことはできない。だから今の人の能力が古におよばないのだ。(しかし)現存しているすべての書物も、もし五百年生きて読むことができれば、学ぶ者はなにも遺憾はなかろう。千年の後を考えるなら、書物はきっと今の数倍になるだろうけれど、それならまた千年の長寿を与えればつりあうはずだ、と。これを名言だとする者もあるが、私はこれは愚かで学問を知らない人間の発言だと思う。もし発言がこの通りだとしたら、造物者がたとえこの人に五千年を与えても、この人にはやはり何も分からないのだ。(「『文史通義』内篇三譯注」p.340-343)

 つまり、「寿命がとても長ければ、学問をきちんと修められるのに…」と言っている人を批判し、学を修められない人は何年寿命があっても同じことだ、と章氏は痛烈に批判するわけです。最後の「余謂此愚不知學之言也。必若所言,造物雖假之以五千年,而猶不達者也」といったあたりなど、言葉激しく批判する章学誠らしさが出ている文章だと思います。

 では、この部分の「何氏鈔本」の字句を見てみましょう。訳は私の試訳です。

(何氏鈔本)

 有賤儒者騖博強識,欺名於当世,世人不察而猥曰某也才。其人慨然曰:嗟乎。造物假我五百年生,庶幾読書其無遺憾乎。或擧其說以告章子,謂是好學之篤也。章子曰:是好名而愚者也,烏知好學哉。

 取るに足りない儒者が、博識を追い求め、世間に名声を欺いているが、世の人はそのことが分からず、ごちゃまぜにして「某氏には才がある」などと言っている。その人は嘆いて、「ああ、もし私に五百年の命があれば、読書して何も遺憾はなくなるだろう」と言った。あるものがこの話をわたくし章学誠に告げ、「学を好むことが篤実である」と言った。章学誠は「これは名声を好む愚か者で、どうして学を好むことが分かろうか」と言った。

 「賤儒」だの「猥曰某也才」だの、道光本よりもさらに激しい調子で罵っています。道光本でも十分に激しい批判に見えるのですが、それよりも強い内容が見えるのは面白いものです。

 王氏は、こうした例は、内容があまりに直接的であるために後から改めたものだとし、他にもいくつかの例を挙げています。つまり、何氏鈔本がより古い形で、道光本はその後に書き改められ、整形されたものということですね。

 他にも似た例がいくつかあり、確かに何氏鈔本は版本よりも古い形を示しているようです。何氏鈔本は、版本の中では嘉業堂本と共通する字句に作ることがやや多いと感じますが、ただ大きく異なっている箇所も多数あり(上の部分もそうです)、判断はまだ保留したいところです。

 

 最後に、ここで批判されている「賤儒」が誰なのかということが気になりますが、い調べたもののよく分かりませんでした。当時の有名な学者・文人であろうと思われますが…。

(棋客)