達而録

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映画「ノー・オーディナリー・マン」(No Ordinary Man)の感想(3)

 引き続き、関西クィア映画祭で観た映画「ノー・オーディナリー・マンについて書いていきます。今回を最終回ということにします。

 今回は、映画の中ではそこまではっきりとは示されていないものの、関連して考えることのできるテーマについて取り上げます。

 特に考えてみたいのは、そもそも「ドキュメンタリー映画を作る」ことを、どう考えればよいのかという問題です。本作のテーマの焦点は、トランスジェンダーと社会の関わりに当てられていますが、本作の中には、映画を撮るという行為そのものを対象化していくような印象的なシーンが含まれています。ドキュメンタリー映画を作るという行為は、そのまま歴史を語る試みでもありますから、歴史研究に従事する筆者としては、色々なことを考えさせられたわけです。


 まず、この映画では、トランスジェンダーを考えるための材料の一つとして、ビリーの人生に焦点を当てています。ビリーの場合、生前に自分のアイデンティティについて特に言及していませんから(また前回述べたように、そもそもトランスという概念が広まる以前の人ですから)、こうした主題の映画の題材にビリーを選ぶということが、本人の望み通りなのかは、結局は分からないことです。

 この問題に関連して、京都での上映の後のトークショーで、吉野靫氏は、ビリーがトランス男性だったのかは結局は分からないが、男性としての自己を社会に提示して生き続けて死を迎えたのだから、われわれはビリーを男性として記憶に留めるべきだろう、とご発言されていました。

 また、作中では「ピアノのためだけに、自分の望まない性を選ばないだろう(よってビリーは男性という性を望んでいたはずだ)」という推測も出てきていますが、これもそうとは限らない、ということを吉野氏は述べていました。どちらも、慎重かつ誠実な態度だと感じます。

 

 そもそも、死んだ人をドキュメンタリー作品として仕立て上げるという行為(そのまま歴史記述の行為と言い換えてもいいでしょう)には、自ずから絶対的な権力関係が生じています。「死人に口なし」という言葉の通り、そこに事実誤認や明らかにされたくない事実が含まれていたとしても、死者は抗議の声を上げることができないからです。

 だとすると、それでも歴史を語ることの意義はどこにあるのでしょうか。

 作中では、歴史を語ることの意義について、ある人は以下のように述べています。人は、歴史の中に、自分と似ているところを発見し、「自分のルーツ」を発見することができる。ビリーをどう考えるかということは、自分の歴史を探すことでもある、というわけです。

 そして、ある人は男性支配の中で女性であることを隠して生きて成功した人として、またある人はブッチレズビアンとして、またある人はトランス男性として、ビリーの人生を見て、それぞれが自分の生き方と重ね合わせて、勇気をもらうのだ、ということが語られています。

 このシーンは、さりげなく挿し込まれていましたが、この映画自体を相対化していくような意味合いもあるのかなと思いました。ビリーを男装した女性として描いたのはダイアンの伝記であり、これはこの映画の中で厳しく批判されるものです。しかし、歴史の意義として考えた場合、ダイアンの伝記もこの映画も変わらない位置にある、ということを自己言及しているように感じられます。

 ただ、やっぱりダイアンの伝記とこの映画とでは、同一に並び得ない決定的な相違もあるはずです。そもそも、ダイアンの伝記はトランスへの偏見に溢れている点で論外です。

 

 また、歴史を語る意義として、歴史の中で弱者は消されてしまうということが述べられています。われわれの現在の文化を支えてきたもの、それを作り上げてきた存在として、女性、有色人種、トランスジェンダーなどが実際にいたということは、これまで歴史から消されてきました。こうした歴史に再び光を当てることは大きな意義があるはずです。作中では、こうした歴史を抹消しては、われわれはルーツを失い、ただ現在だけに縋りつく根無し草になってしまうという指摘がなされています。

 

 さて、死者を撮影する際の権力関係の問題は、撮影対象が死者であろうとなかろうと生じてきます。即ち、撮影する側とされる側の権力関係の問題です。「ノー・オーディナリー・マン」の優れている点として、撮る側と撮られる側の権力構造に敏感であろうとしていることも挙げられると思います。

 たとえば、オーディションのシーンや、トランスジェンダーのインタビューシーンでは、インタビューされる対象の人だけではなく、撮影側のスタッフやその撮影機材の全体がしばしば映し出されています。

 こう書くと、「なんだそれだけか」となりそうですが、ものものしい機械と多くの人が一人を取り囲んでいる映像を実際に見ると、効果的な演出であることが分かります。一人の人間をインタビューとはどういうことなのか、観客(また制作側)に客観視する視点を与えているわけです。

 この映像によって、芸術作品を作るために、この作品自体が一人の人間を題材として搾取している状況をよく表しています。しかも、題材とされる人は、社会の中で弱者の立場に置かれてきたトランスジェンダーたちです。撮影風景を客観視する映像を見せることによって、こうした本作品の立ち位置を自ら示しているようにも思いました。

 

 佐々木氏も紹介していましたが、この映画の冒頭では、以下の言葉が掲げられています。

 James Baldwin — 'The purpose of art is to lay bare the questions that have been hidden by the answers.'

 この人は、黒人の同性愛者として、公民権運動などに関わった人であるとのことです。この言葉の通り、「ビリーは○○だった」などといった従来与えられた答えの中に、不可視化されていた「問い」を暴き出す作品だったのではないかと思います。

 

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