達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

梅賾本『尚書』と『経典釈文』(2)

※前回の続きです。この一連の記事は、二年ほど前に執筆して、そのままブログの下書きとして眠り続けていたものです。一部が、前回の記事でお知らせした論文の下敷きになりました。(「劉炫の学問とその書物環境」の公刊 - 達而録

〔記事一覧〕

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 前回の続き。本題に入るには、もう少し整理が必要です。前回同様、劉起釪『尚書學史』、王利器「『經典釋文』考」によってまとめておきます。

 「舜典」の偽孔伝の来歴については、まず『經典釋文』叙録にこうあります。

『經典釋文』叙録(通志堂本・十六葉裏)

 齊明帝建武中、呉興姚方興采馬王之注、造孔傳舜典一篇、云「於大𦨵頭買得」上之。梁武時為博士議曰「孔序稱伏生誤合五篇、皆文相承接、所以致誤。舜典首有曰「若稽古」、伏生雖昬耄、何容合之。」遂不行用。(略)近唯崇古文、馬鄭王注遂廢。今以孔氏為正。其舜典一篇仍用王肅本。

 「舜典」の偽孔伝は、前回紹介したとおり、梅賾本には存在していませんでした。その後、姚方興が馬融・王肅注から「孔傳舜典」を作成し、「大航頭(地名)で買った」と喧伝して献上します。このとき、はじめて「舜典」の孔伝が出現したわけです。

 この本は、梁の武帝の時に議論がなされ、用いられないこととなりました。実際、『釈文』は『尚書』の注として偽孔伝を用いていますが、「舜典」の一篇だけは、偽孔伝ではなく「王肅注」を用いることになりました。

 

 しかし、唐代に編纂された『尚書正義』の「舜典」には、孔伝が用いられています。孔伝を備えた舜典は姚方興本にしかありませんから、『尚書正義』は姚方興本を用いているということになります。

 その経緯を知るため、『尚書正義』舜典の関連する記述を見てみましょう。

尚書正義』舜典(阮元本・巻三・一葉裏)

 昔東晉之初、豫章内史梅賾上孔氏傳、猶闕舜典。自此乃命以位已上二十八字、世所不傳。多用王范之注補之、而皆以慎徽已下為舜典之初。至齊蕭鸞建武四年呉興姚方興於大航頭得孔氏傳古文舜典、亦類太康中書、乃表上之、事未施行、方興以罪致戮。至隋開皇初、購求遺典、始得之。

 この記述に拠れば、梅賾本に無かった「舜典」の伝文は、姚方興本の出現以前は、「王范之注」、つまり王粛・范寧の注釈によって補われていたようです。

 この状況を反映するものとして、『隋書』經籍志には、「古文尚書舜典一卷、晉豫章太守范寧注。梁有尚書十卷, 范寧注,亡。」とあります。つまり、『尚書』全体への范寧注は隋代には失われていたものの、上の事情から必要とされた范寧注「舜典」だけは単行本として別行しており、単独で隋代にも伝えられていた、と考えられます。

 そして南斉の建武四年(497年)、姚方興本が出てきます。これが「太康中書」(竹書紀年などの汲冢書)に似ているとされたのも興味が引かれるところですが、いったん脇に置いておきましょう。

 姚方興本は、先述したように当初は用いられなかったはずですが、隋の開皇の初めになって、遺典を買い求めた際に、再発見されることになりました(「至隋開皇初、購求遺典、始得之」)。

 

 これだけでは曖昧な記述ですが、より細かい事情は、唐の劉知幾の『史通』を見ると分かります。

『史通』古今正史篇*1

 齊建武中、呉興人姚方興采馬王之義、以造孔傳舜典、云「於大航購得、詣闕以獻。」舉朝集議、咸以為非。(梁武帝時、博士議曰「孔敘稱伏生誤合五篇、蓋文句相連、所以成合。舜典必有「曰若稽古」、伏生雖云昏耄、何容■■。」由是遂不見用也。)及江陵版蕩、其文入北、中原學者得而異之。隋學士劉炫遂取此一篇列諸本第、故今人所習『尚書』舜典、元出於姚氏者焉。

 姚方興本が北朝に伝わって重視され、劉炫がこの一篇(舜典)を取ったこと、そしてその後に『尚書』舜典を学ぶものは、姚方興本に拠っていることが記録されています。

 『尚書正義』は唐の孔頴達らの編纂にかかるものですが、その作成の際には劉炫の『尚書述議』を基礎にしています。よって、「舜典」について同じく姚方興本を用いているのは、納得できるところです。

 「舜典」の偽孔伝は、『釈文』に拠れば、「姚方興が馬融・王肅注から作成した(偽作した)伝」です。しかし『尚書正義』では単に「姚方興於大航頭得孔氏傳古文舜典」とあるので、「姚方興が作った伝」とは考えるに、あくまで「姚方興によって後から発見された孔安国伝」というつもりで、この伝文を用いているだと思います。

 

 次に、『経典釈文』の舜典篇について考えていきたいですが、これは次回の記事に回すことにしましょう。

 

 さて、先に「姚方興本の入北」という話がありました。これは、南北朝の典籍の移動を考える上で興味深い事例です。この手の事例については、吉川忠夫「島夷と索虜のあいだ--典籍の流傳を中心とした南北朝文化交流史」*2に整理されておりまして、ここでこの例も触れられています。吉川氏が注目するのは下の例です。

『北史』儒林傳上*3

 齊時儒士罕傳尚書之業、徐遵明兼通之。遵明受業於屯留王聰、傳授浮陽李周仁及勃海張文敬、李鉉、河間權會、並鄭康成所注、非古文也。下里諸生、略不見孔氏注解。武平末、劉光伯、劉士元始得費甝義疏、乃留意焉。

 この記述は、劉炫の『尚書』学を考える上でも重要です。もともと北朝では鄭玄注『尚書』が一般的であった中、隋代に(偽)孔安国伝を用いるようになったのは、この二劉の選択が大きな影響を与えているようです。

 ここで言われる「費甝の義疏」については、『釈文』にも言及があり、六朝期には世に行われていた義疏であったようです。梁のものですから、素直に考えれば、これは(偽)孔伝を基にした義疏でしょう。ただ、姚方興本は南方では行われていなかったようですから、舜典は他の注を用いていたことになります。(上に挙げた『正義』の記述によれば、王肅注・范寧注が有力候補でしょうか。)

 しかし、劉炫はここで敢えて、姚方興本「舜典」を用いた訳です。姚方興本「舜典」の伝文が姚方興の作成であるという『釈文』の説を、劉炫が知った上で用いていたのかどうか、というのは気になるところです。当て推量でしかなく細かい考察はしていませんが、彼の『孝経』孔安国伝に対する態度から考えるに、そういう説があることを承知の上で、敢えて使った可能性もあるように思います。

 また、ここで姚方興本が「太康中書」(汲冢書)に似ているとされた点が気になってきます。複雑な問題が多く、また考えてみたいところです。

 もう一つ付け加えておくと、『尚書正義』は劉炫の義疏を基礎にしているとされていますが、劉炫の義疏は早くに亡んでしまい、実際に比較することは困難極まります。兩者の共通する条を提示できた例は数少ないのですが、ここの話もその一つに入れて良いのではないか、と思います。

 


 

 さらにもう一点、追記。姚方興本の存在は、過去の研究において意外と見過ごされがちなところがあるようです。

 例えば、名著として知られる加賀栄治『中国古典解釈史』においても、「王粛注が偽孔伝と類似している例」として、舜典の伝文を引く場合があります。しかし上の経緯から考えれば、「舜典」の場合は両者が類似しているのは当たり前の話で、偽孔伝全体の論証にはあまり関係がないはずです。(むろん、上に記された経緯が必ず事実であるとも限らないので、事情を承知の上で参考までに引くなら問題ないでしょうが。)

(棋客)

*1:浦起龍『史通通釋』上海古籍出版社、1978、p.331

*2:『東方学報』72、2000

*3:中華書局、p.2703