達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

梅賾本『尚書』と『経典釈文』(3)

※前回の続きです。この一連の記事は、二年ほど前に執筆して、そのままブログの下書きとして眠り続けていたものです。一部が、以前の記事でお知らせした論文の下敷きになりました。

〔記事一覧〕

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 前回の続きです。引き続き、劉起釪『尚書學史』と王利器「經典釋文考」に沿って、『尚書』と『経典釈文』に関するあれこれを整理していきます。

 前回、現行本『尚書』舜典の伝文は、姚方興によって作られたものであることを述べました。しかしこれは劉炫以後、そして『五経正義』以後に主流となったもので、六朝期には用いられていなかったことが『経典釈文』と『史通』の記載から分かります。

 すると、もう一つ疑問が浮かびます。『尚書』舜典篇の『経典釈文』は何を基準にしているのか、という疑問です。

 

 『経典釈文』は、経書の経文と注釈に音義を記した書です。『尚書』の『釈文』の場合、「梅賾本」の経文と(偽)孔伝を基準にして、その文字に対して音義を記しています。しかし、これまでの記事で述べたように、「舜典」だけは特別で、王粛注を用いていたことが『釈文』に記されていました。

『經典釋文』叙録(通志堂本・十六葉裏)

 近唯崇古文、馬鄭王注遂廢。今以孔氏為正。其舜典一篇仍用王肅本。

 また実際、『尚書釈文』の舜典篇の冒頭にははっきり「王氏注」と書かれています。つまり、ここまでの話を整理すると、このようになるはずです。

  • 現行本『尚書』舜典篇
    • 経文:姚方興本
    • 伝文:姚方興本
  • 『経典釈文』尚書・舜典篇
    • 冒頭二十八字の経文:姚方興本(+姚方興本の異本)
    • 冒頭二十八字の伝文:釈文なし
    • その他の経文:王肅注『尚書』堯典の経文
    • その他の注文:王肅注

 しかし、現行本『経典釈文』を見ると、舜典の音義は、姚方興本の伝文、つまり「偽孔伝」に沿って書かれているように見えるのです。例えば、以下の部分。

尚書』舜典(阮元本・巻三・九葉表)
 歳二月、東巡守、至于宗、
(孔傳)諸侯為天子守土、故稱守。巡、之。既班瑞之明月、乃順春東巡。岱宗、泰山、為四岳。所宗柴、祭天告至。

『經典釋文』尚書音義上(通志堂本・四葉裏)
 、似遵反、徐養純反。、時救反、本或作狩。、音代、泰山也。、士皆反。『爾雅』祭天曰「燔柴」、馬曰「祭時積柴、加牲其上而燔之。」、下孟反。、扶袁反、又扶云反。

 この「行、下孟反。燔、扶袁反、又扶云反。」の部分は、孔伝に対して附された音義であるように見えます。

 姚方興は「馬融注」と「王粛注」から伝文を作成したわけですから、その注文が『釈文』の採用した「王粛注」と一部共通するところがあってもおかしくはないのですが、全て一致するのはおかしな話です。

 特に、多くの人が用いる阮元本「十三経注疏」の『尚書』は、「経文+注文+釈文+疏」という形式(「附釈文」)を採り、『経典釈文』の内容が伝に対応するように書かれています。すると、偽孔伝の後ろに『釈文』が附されているわけで、両者が対応関係にあるかのように見えるわけです。

 

 ここで一つの疑問が浮かびます。『経典釈文』の尚書「舜典」は、王肅注に従ったはずなのに、偽孔伝と対応するように見えるのは何故でしょうか。

 結論から言えば、後に孔伝と合うように書き換えられたから、ということになります。『釈文』の場合、その書き換えの様子が実物から分かるので、それを追いかけてみることにしましょう。

 

 一般的に、中国の古い本というのは、木版本の形態で現代に伝えられているものが多いです。その要因にはさまざまなものがあるでしょうが、木版印刷すると同じ本をたくさん複製することができるので、そのぶん後世に伝えられやすくなる、というのがまず分かりやすい説明になるでしょう。木版印刷が広く普及したのは宋代で、それ以前は手書きで写すことで本を複製していました。

 『経典釈文』も、作られた当時、そして伝えられていく過程では、手書きの本(抄本、写本)でした。そして、その後さまざまに書き写されながら宋代に至ると、木版印刷されるようになり、また様々な版本を経由しながら現在我々が見ている本に辿り着くことになります。こうした『經典釋文』の来歴、特に版本面に関する詳細な整理は、虞萬里「《經典釋文》單刊單行考略」(『楡枋齋學術論集』江蘇古籍出版社、2001)に詳しいです。そして、本記事の中で『釈文』を見る際に利用している「通志堂本」は、そういった木版本の中で善本として知られているものの一つです。

 ただ、『経典釈文』の『尚書』舜典篇の場合、敦煌で発見された古写本が存在し、現代の我々はこれを見ることもできます。むろん、木版本も連綿と伝えられてきたものであり、必ず古写本が正しいということでありませんが、古写本を見ると色々新たな発見があることも確かです。

 

 さて、敦煌本の『尚書釈文』舜典篇と、通志堂本(『釈文』の木版本の中で善本とされるもの)とを見比べると分かることは、「通志堂本は姚方興本に合わせて改変されている」ことである、と王利器はいいます。

 王利器は大量の事例を列挙していますが、その中で見やすい例を掲げておきます。

尚書』舜典(阮元本・巻三・九葉裏)
 至于北岳西禮

『經典釋文』尚書音義上(通志堂本・四葉裏)
 至于北岳西禮方興本同。馬本作「如初

 敦煌本は、以下のように作ります。なお、敦煌本『經典釋文』の底本としては、張涌泉主編『敦煌經部文獻合集』(中華書局、2008)所収の許建平整理本を用いています。

 敦煌本『經典釋文』
 至于北岳如初馬本同、方興本作「西禮

 敦煌本『釈文』は、王肅本を用いて經文を「如初」としており、この部分が姚方興本は「西禮」に作る旨を記している訳です。

 一方、現行本『尚書』の經文は「西禮」に作っています。これは姚方興本に沿っているのでこうなるわけです。

 これを承けて、現行本『釈文』は経文を「西禮」に修正し、それに合うように音義も文章が変えてあります。これは現行本に合わせて『釈文』に引かれる経文を改変し、更にその経文と話が合うように、作り変えてあるわけです。

 

 では、この改変が行われたのはいつの話なのか?というのが次の問題点になります。この『尚書釈文』の改変という問題については、古くから注意が払われているところです。『玉海』にこうあります。

『玉海』卷三十七・藝文・開寶尚書釋文*1
 唐陸德明『釋文』用古文。後周顯德六年、郭忠恕定古文刻板(忠恕定古文『尚書』併『釋文』)。太祖命判國子監周惟補等重修。開寶五年二月、詔翰林學士李昉校定上之、詔名『開寶新定尚書釋文』。咸平二年十月乙丑、孫奭諸摹印『古文尚書音義』(『唐志』顧彪古文音義五卷、王儉音義四卷。)與『新定釋文』並行。(奭言、古文尚書釋文印板猶存、請雕印。)天聖八年九月十二日、雕『新定釋文』。

 他、『文獻通考』の引く『崇文總目』にはこうあります。

『文獻通考』卷百七十七・經籍考四・陸德明尚書釋文一卷
 『崇文總目』皇朝太子中舍陳鄂奉詔刋定。始開寶中、詔以德明所釋乃古文『尚書』、與唐明皇所定今文駮異、令鄂刪定其文、改從頴書。蓋今文自曉者多、故音切彌省。

 『尚書釈文』の字体の変更と、それに伴う中身の大きな変更は、宋代の開宝の頃になされたという記録が残っており、先の改変もこの時になされたのではないか、と考えられる訳です。ここには、『尚書釈文』が「古文」を用いていたものを「今文」に改めたという記載があり、注目されるところです。

 むろん、写本の時代から版本の時代、そして現代へと、字の変化が起こるタイミングはほとんど無限にある訳で、「『釈文』の字句を改変した」という記録があったとしても、これに安易に当てはめることは、危険なところがあるかもしれません。とはいえ、まずこういった事情があることは把握しておくべきでしょう。

 

 以上、一通りのところを整理できたと思います。ただ、具体的な「改変」の内容については、先の一例しか触れることができませんでした。

 先日、『尚書釈文』の舜典篇の字句を現行本と敦煌本とで全体的に比較してみましたので、その相異からどのようなことが読み取れるのか、また検討してみようと思います。

(棋客)

*1:同樣の記述は、巻四十三「開寶校釋文」にもある。なお、章如愚『群書考索』卷二・六經門には「宋朝開寶尚書釋文、九年二月、翰林李昉、知制誥扈蒙、李穆上。初准詔校定『尚書釋文』、乃詔以『大宋開寶新定』冠其題、刻板頒行。陸徳明『釋文』用古文尚書、故命國子博士判監周惟簡與太子中舎陳鄂、重修定焉。」とあり、開寶九年のこととする。