※前回の続きです。この一連の記事は、二年ほど前に執筆して、そのままブログの下書きとして眠り続けていたものです。一部が、以前の記事でお知らせした論文の下敷きになりました。
〔記事一覧〕
- 梅賾本『尚書』と『経典釈文』(1) - 達而録
- 梅賾本『尚書』と『経典釈文』(2) - 達而録
- 梅賾本『尚書』と『経典釈文』(3) - 達而録
- 梅賾本『尚書』と『経典釈文』(4) - 達而録
- 梅賾本『尚書』と『経典釈文』(5) - 達而録
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今回は、『経典釈文』尚書・舜典篇の通志堂本(木版本の善本とされるもの)と、敦煌本(敦煌で発見された手写本)の比較をしていきます。前回の述べたように、敦煌本は『釈文』の尚書・舜典篇が大きな改変を経る前の本ですから、色々な違いが見つかるはずです。
ここまで、王利器「經典釋文考」(『曉傳書齋文史論集』1989、香港中文大学出版社、p.9-74)、劉起釪『尚書學史』(中華書局、1989)をもとに整理してきました。他の先行研究として、木島史雄氏の以下の三編の論文があります。オンライン公開されていますので、こちらも見てみてください。
- 「『経典釈文』の著述構想とその変用の構図--〈書物の情報表示形式の適正化〉の視点から」(東方学報71、1999)
- 「舜典釋文考」(東方学報 72, 718-691, 2000-03)
- 「『經典釋文』の變遷--「舜典」釋文諸本にみるその利用環境」(東方学報73、2001)
王利器氏やそれ以前の研究は、『釋文』をその内容面から整理するとともに、歴史書を紐解いて来歴を整理し、より発展的な研究を行うための土台を与える類いのものだったと言えましょうか。そこに、木島氏の研究は、『釋文』という書物の在り方(形式、著述意識、実際どのように用いられたか…など)を多角的に検討し、概念的な面から整理を与えたものです。
以下で比較する条も、一部王氏・木島氏の研究と重なるところもあるのですが、とりあえず自分なりに比較したものを載せておこうと思います。
まず、この一条。
『尚書』舜典
眚災肆赦,怙終賊刑。
(偽孔伝)眚、過。災、害。肆、緩。賊、殺也。過而有害、當緩赦之。怙姦自終、當刑殺之。
現行本『釈文』:眚、所景反。怙、音戶。
敦煌本『釈文』:眚、所景反、過也。注同。𤆄(乃+火)、本又作「災」、皆古「灾」字、害也。『説文』云、災、籀文「烖」字也、灾、或「烖」字也、古文作「𤆎」。𢒣怙、音戶、恃也。
敦煌本では相違がある部分に下線を引いておきました。パッと見るだけでも、現行本『尚書釈文』が、かなり改変されたものであることがわかります。(「𢒣」の字は、正確には上の部分が「自」に作っているようです。)
わかりやすいのは、「𤆄」(乃+火)の字のところです。恐らく、敦煌本『尚書釈文』の依拠したテキストは、「災」でなく「𤆄」という字を用いていたのでしょう。そしてこの「𤆄」について、
- テキストによっては「災」に作ること
- これらがどちらも「灾」の古字であること
- 『説文解字』の引用
の三点を『釈文』は示しているのです。
のち、『尚書釈文』が改変された際(前回の記事を参照)、依拠した『尚書』の字句は「𤆄」でなく「災」となっていたようで、これに合わせた『釈文』に作り直されました。その際、「災」の字がテキストによってバリエーションがあったという情報も削除されてしまったようです。すると『説文』の解説も不要となるので、そこも削られています。「災」の字が、わざわざ説明をつけるまでもない簡単な字という事情もあるでしょう。
現行本と敦煌本の間での、上のようなパターンの異同は非常に多く存在します。これは、もともと古文に拠って書かれていた『尚書』本文が、ある時に今文に直されたことと関係しています。大雑把に時系列で並べると、以下のようになります。
- 古文『尚書』(偽古文・偽孔伝)に依拠して、『尚書釈文』が作られる。
- 古文『尚書』が今文の字体に改められる。(唐の玄宗の時。衛包改字。)
- 今文字体で書かれた古文『尚書』に沿って、『釈文』も合うように改められる。(宋の開宝の時、前回記事参照。)
敦煌本『釈文』は③以前のもの、現行本『釈文』は③以後のものです。よって、古文の字体について説明している部分は、今文に依拠する現行本『釈文』にとっては必要のない部分、ということになり、多くが削除されてしまったわけです。
というより、現行本『釈文』は、異体字のバリエーションを記録することに対してあまり注意を払っていない、というべきかもしれません。例えば以下の例。
現行本『釈文』:惇、音敦。
敦煌本『釈文』:惇、本又作「𢤈」、皆元古「敦」字、厚也。
同じ部分に対する同じ字の『釈文』ですが、現行本では異本の情報が抜け落ちています。このような例も非常に多く見受けられます。
これは、「今字に依拠したことによる改変」というより、「著述意識の違い」「書の目的の違い」が現れた例、と言った方が良いかもしれません。極端に言えば、現行本『釈文』は、意味が分かれば良いという方向、字を統一しようとする方向、に向かっているということになるでしょうか。
さて、今回は字体の改変による両本の相異、という話になってしまい、これまで話してきた、依拠する注釈の違い(偽孔伝or王肅注)という話になりませんでした。次回、もう少し読み進めてみようと思います。
(棋客)