前回の続きで、劉炫の『孝經述義』の廣至德章を見ていきます。経・伝は以下です。
教以孝、所以敬天下之爲人父者也。
〔孔伝〕所謂「敬其父則子悦」也。以孝道敎、卽是敬天下之爲人父者也。教以弟、所以敬天下之爲人兄者也。
〔孔伝〕所謂「敬其兄則弟悦」也。以弟道敎、卽是敬天下之爲人兄者也。教以臣、所以敬天下之爲人君者也。
〔孔伝〕所謂「敬其君則臣悦」也。以臣道教、卽是敬天下之爲人君者也。古之帝王父事三老、兄事五更、君事皇尸、所以示子弟臣人之道也。①及其養國老、②則天子袒而割牲、執醬而饋之、執爵而酳之、盡忠敬於其所尊、以大化天下焉。③皇、君也。事尸者謂祭。之像者也。尸卽所祭之象、故臣子致其尊嚴也。④三老者、國之舊德、賢俊而老、所從問道誼故、有三人焉。五更者、國之臣、更習古事、博物多識、所從諮道訓故、有五人焉也。
最後の長い孔伝について、前回の記事で、劉炫がこの孔伝の全体の位置づけと、前半の内容について説明したところを見ました。今回は、「及其養國老」以下の部分です。
①傳自「及其」以下覆述上「父事」「君事」所為之事。王制陳虞、夏、殷、周四代養國老於大學、「國老」即三老五更是也、故引樂記天子養三老五更之事以說之。
孔傳の「及其」以下は、上の「父事」「君事」で行うことを繰り返し述べる。『礼記』王制には虞・夏・殷・周の四代において國老を大學において養ったとあり、「國老」とは三老・五更のことである。そこで『礼記』樂記の天子が三老・五更を養ったことを挙げて説明する。
『礼記』王制には、「有虞氏養國老於上庠、養庶老於下庠。夏后氏養國老於東序、養庶老於西序。殷人養國老於右學、養庶老於左學。周人養國老於東膠、養庶老於虞庠」とあります。「國老」はここから来た言葉だとするわけです。
『礼記』樂記には「食三老五更於大學、天子袒而割牲、執醬而饋、執爵而酳、冕而揔干、所以教諸侯之弟也」とあり、孔伝はこれを引用しています(『礼記』祭義にも同じぶんがあります)。
②「袒而割牲」、謂如祭祀之禮、人君親執鸞刀以啟其毛也。「執醬而饋」、謂親薦脯醢也。「執爵而酳」、謂親獻酒也。父、兄、君者己之所尊、王者盡忠敬於其所尊、以大化天下焉。傳上句雖言「君事皇尸」、而「君事」之理不著、故更自解之。
「袒而割牲」とは、祭祀の禮のように、君主が自ら鸞刀(祭祀用の装飾のついた刀)を用いて生贄の毛皮を切り開くことを指す。「執醬而饋」とは、君主が自ら調味料を進めることをいう。「執爵而酳」とは、君主が自ら酒を献上することをいう。父・兄・君とは自分が尊ぶ対象であり、王者は忠敬をその尊ぶ対象に尽くし、それによって大いに天下を教化する。孔傳では上句で既に「君事皇尸」と解説しているが、「君事」の意味が明らかでないので、更に自分で解説したのだ。
前回も述べましたが、劉炫としても、ここの孔伝の作りが他と異なることには注意を払っているようです。つまり、最初に孔伝で述べられた「君事皇尸」の意味が分かりにくいから、孔伝が更に自分で解釈した、という二重構造になっているわけです。
一目見た感じでは、孔伝の「皇、君也」以下は別の人が付加したのではないか、とも思えます。偽孔伝の成立事情はよく分かっていませんが、違和感の残るところですね。
③「皇、君」、釋詁文也。「尸」訓「主」也。古之祭者、必以人為神主、謂之為尸、故云「事君尸者謂祭」也。郊特牲云「尸神象」、故云「尸即所祭之象」也。象其君父、故臣子致其尊嚴也。
「皇、君」は、『爾雅』釋詁の文である。「尸」は「主」と訓ず。古の祭では、必ず人を神の主とし、これを「尸」としたから、孔伝に「君の尸に仕えることを祭という」という。『礼記』郊特牲に「尸とは、神の象(シンボル)」とあるから、「尸とは、祭る対象の象」という。その君主の父の象であるから、君主は臣子としてその尊厳に仕える。
「尸」は、祭祀の際に神の受け手として用いる依代・形代のこと。祭祀の対象の死者に似せた存在で、「象」という言葉で表現されています。
以下、三老・五更について孔伝が改めて解説するところについての『述議』です。
④傳於上句既言三老五更、復說其所用之人主名意。年老者三人、更事五人、俱是年老並有德業。三老尊、以年齒為名、故以「舊德」「賢俊」解之。五更卑、以使能為名、故以「更習」「博識」解之。其實互相通也。王制云「養老乞言」、故云「所從問道義」「諮訓故」也。「訓故」謂先王教訓之故事也。蔡雍以「更」為「叟」。叟、長老之稱也。其字與「更」相似、書者轉誤耳。鄭玄樂記注云「老、更互言耳、皆老人更知三德五事者」。其意以三老、五更各一人、以「三」「五」為名耳。
孔傳では上句ですでに三老・五更について言っているが、再びその用いる人や名前について説明する。年老の者が三人、世事に通じた者が五人、ともに年老で德の行いがある者である。三老は(五更より)高い地位で、年齢によって名称とするから、「舊德」「賢俊」として解説する。五更は(三老より)低い地位で、その能力によって名称とするから、「更習」「博識」として解説する。事実としては、互いに通じるものである。『礼記』王制に「老人を養い意見を乞う」とあるから、孔伝は「道義を問う」「故事を尋ねる」という。孔伝の「訓故」とは、先王の教訓の故事を指す。蔡雍は「更」を「叟」とし、「叟」は長老の呼称で、その字が「更」と似ているから、筆記者が誤って転写したとする。鄭玄の『礼記』樂記の注には「老と更は互言で、いずれも老人で三德・五事を知っている者のこと」という。鄭玄の意は、三老・五更がそれぞれ一人で、「三」「五」はそう呼ばれているだけということである。
蔡雍とあるのは蔡邕のことです。『三国志』魏書・三少帝紀の裴注に「蔡邕明堂論云:「更」應作「叟」。叟,長老之稱,字與「更」相似,書者遂誤以為「更」。「嫂」字「女」傍「叟」,今亦以為「更」,以此驗知應為「叟」也。臣松之以為邕謂「更」為「叟」,誠為有似,而諸儒莫之從,未知孰是」とあります。
孔伝では、三老・五更はそれぞれ三人・五人任命するようですが、鄭玄はそれぞれ一人ずつであるとし、『述議』では、歴代の制度で鄭説と孔伝のどちらが採られているのか分析しています。それが以下の部分です。
養老之禮、希世間出。漢明帝永平二年、始尊事三老、兄事五更、以李躬為三老、桓榮為五更。是鄭玄以前已有以一人為說者也。魏高貴鄉公甘露三年、帝入學、將崇先典、乃命王祥為三老、鄭小同為五更。吳蜀晉宋皆無其事。後魏高祖孝文皇帝大和十七年、鄴城行養老之禮、以尉元為三老、游明根為五更、各用一人、從鄭說也。
養老の礼は、世に出ることが稀である。漢の明帝の永平二年に、初めて尊んで三老に仕え、兄のように五更に仕え、李躬を三老、桓榮を五更とした。これは、鄭玄以前から、すでに三老・五更はそれぞれ一人とする説を説くものがいたのである。魏の高貴鄉公甘露三年には、帝が入學し、先典を崇めて、王祥を三老、鄭小同を五更とした。吳・蜀・晉・宋においてはいずれもこのこと(養老の礼)はない。後魏の高祖孝文皇帝大和十七年には、鄴城において養老の礼を行い、尉元を三老、游明根を五更とし、それぞれ一人を用いた。鄭説に従っている。
それぞれ、『後漢書』『三国志』『魏書』に載っている出来事です。前回、劉炫が『東観漢記』『漢官儀』などを見ていることは述べましたが、ここにこういった書籍も加わるわけです。
劉炫は、『修文殿御覧』を編纂していた北斉の時期に頭角を現し(ただし『修文殿御覧』編纂者のリストには名を連ねていません)、隋では国史編纂にも携わり、隋の開皇の蒐書の恩恵も受けていたはずです。彼は恵まれた資料を閲覧しうる環境にあり、それゆえに『正義』に繋がる学問を残すことができたのでしょう。
(棋客)