ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル:フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(竹村和子訳、青土社、2018、新装版)の読書メモの続きです。
今回は、政治行動のための連帯についてバトラーが論じているところを見ていきます。以下、p.42~44を引用しています。
ここでは、直接的には、女という主体を(統一的な)運動の基盤として掲げてきたフェミニズムの在り方について述べる一段ですが、社会運動・政治運動がどのようにあるべきかという課題ともつながってくる内容です。
まえもって連帯の「統一」を目標とするのにこだわる背景には、どのような代価を支払っても、団結こそが政治行動の前提条件だとみなす仮定がある。けれども統一の先物買いを必要とするこの種の政治とは、どのようなものか。おそらくそもそも連帯というのは、その内部の矛盾を認め、それはそのままにしながら政治行動をとるはずのものではないか。またおそらく対話による理解が引き受けなければならない事柄の一つは、相違や亀裂や分裂や断片化を、しばしば苦痛をともなう民主化のプロセスのひとつとして受け入れることではないか。
主体やその意思の「統一」を前提として動くこと、また到達するべき理想的な状態を事前に掲げることは運動の条件ではない、むしろ内部の矛盾を対話が引き受けることが必要であると述べます。ただ、この「対話」が何なのかということも、共有しなければいけません。
「対話」という概念そのものが文化によってまちまちであり、またこの概念は歴史的に制約も受けてきたので、対話している片方は会話が進行していると安心していても、片方は絶対にそうでないと思っているかもしれない。だから対話の可能性を条件づけ、制限づけている権力関係はどういうものかを、まずはじめに問わなければならない。さもなければ対話モデルは、語っている行為者(エージェント)がみな同じ権力位置にいて、何が「同意」で、何か「統一」かについて全員が同じ前提で話をし、また実際に、「同意」や「統一」こそが達成すべき目標であるというようなリベラル・モデルのなかに、逆戻りしてしまう危険性をもつことになる。
そして、「統一」を目標とする運動について、以下のように批判します。
「統一」は、有効な政治活動に必要なものなのか。統一という目標に早まって固執することこそ、戦列のあいだに、さらにひどい分裂をおこす原因とならないか。分裂していると思われている形態の方が、女というカテゴリーの「統一」を前提とせず、それを希求しないがゆえに、連帯行動を促進するのではないか。「統一」というのは、アイデンティティの次元で団結という排他的な規範を打ち立ててしまうので、その結果、アイデンティティの概念の境界を攪乱したり、その攪乱を政治目標とする一連の行動の可能性を、組織的に排除してしまうのではないか。
バトラーは、最後にこうまとめています。
連帯の政治に対するこの反基盤主義的なアプローチが想定している事柄は、「アイデンティティ」は前提ではないこと、また連帯している集合体の意味や形状は、その実現以前には知りえないということである。
次回の記事で、排除的に主体を形成することの問題点について議論した一段を見ていきます。
さて、前回の記事と今回の内容から、フェミニズムの主体に対する問いかけ、たとえば「シスターフッド」といった連帯の方法に対する問いかけが浮かび上がってきます。これについては、 高島鈴『布団の中から蜂起せよ: アナーカ・フェミニズムのための断章』(人文書院、2022)の第二章に収録されている「シスターフッド・アジテーション」を、合わせて読むといいかもしれません。
高島さんのこの文章の冒頭には、以下の文が掲げられています。
戦略的に手を繋げ、必要に応じてその手を掲げ、必要に応じて手を離せ。大事なのは戦略だ。不愉快なにやにや笑いが充満する曖昧な状況に目を凝らし、的確にやつらの弱点を指すことを考えろ。(p.50)
そしてバトラーも、排除の論理にもとづいて領域を設定すると、結局は、威圧的で規制的な帰結をもたらすことを述べ、「戦略」の重要性を以下の言葉で説いています。
なぜなら戦略はつねに、それが意図している目的を超える意味をもってしまうからだ。(p.24)
運動において重要なものは戦略です。それは闘い方であり、「誰に何を訴えるか」という話だけではなく、たとえば言葉の遣い方だったり、運動の在り方や、人とのつながり方・連帯の仕方だったり、場を維持するための対話や会議の方法だったり、そういう実践の中にあるものだと思います。
次回に続きます。↓
ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル:フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(3) - 達而録
(棋客)