達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

「時勢」という考え方(2)

 前回、汪暉著・石井剛訳『近代中国思想の生成』岩波書店、2011)に導かれて、「時勢」という考え方を紹介しました。今回は、渡邉大「章学誠の著述観(上)」(『文学部紀要』30(2)、2017、文教大学)を用いて、この「時勢」観念をよく用いていた章学誠の議論を紹介します。以下、pp.35-36を引用しています。

 渡邉大氏は、章学誠が描く学術史や著述史が、「校讐的思考」とも言うべきものに支えられているとし、その特徴を二つ挙げます。このうちの一つ目が特に「時勢」と関わるものです。

第一に、学術の変遷を必然、不可避のものと考えることである。すでにみたものの中にもあったように章学誠の文章には、「勢之不得不然也」「勢之不得已」 「不得不然之勢」「自然之勢」「勢使然也」 などの語が頻出する。

 「勢之不得不然也」とは、時勢がそうしないわけにはいかなかった、そうせざるを得ない状況であった、ということです。そして章学誠『校讎通義』宗劉篇の言葉を引いています。

たとえば、『七略』 の六部分類から後世の四部分類への変化について、 「七略之流而爲四部、如篆隸之流而爲行楷、皆勢之所不容已者也。……凡一切古無今有、古有今無之書、其勢判如霄壌、又安得執『七略』之成法、以部次近日之文章乎。(『七略』の六部分類が四部へと変化したのは、楷書・隸書がやがて行書・篆書となったようなもので、いずれも趨勢の止め得なかったことである。……すべて古代になく現在ある書籍があり、また古代にあって現在ない書籍があり、その趨勢は天と地のようにはっきりわかれている。どうして『七略』既存の方法によって近時の文章を分類・配列できようか。)」(校讎通義・宗劉)と述べているのはその端的な例である。

 よく見られる儒教の尚古思想のなかでは、三代(夏・殷・周)がとにかく尊ばれ、礼制度、道徳、学問のあり方などなど、何につけても三代、特に周代への回帰が唱えられます。

 しかし章学誠は、三代からの変化は「趨勢の止め得なかったこと」であると唱えます。ここから、周代の制度は当時の時勢・状況が背後にあってのことであって、現代における理想の制度は必ずしも周代のそれではないのではないか、と考えが進みそうです。以下、渡邉大氏の行論を見ます。

六藝が先王の政典であったと考える章学誠にとって、「官師合一」「治教無二」なる状態は政治と学問における理想のかたちではあったが、そこに戻れというような復古的主張はまったく見られない。それどころか、「夫道備於六經、義蘊之匿於前者、章句訓詁足以發明之。事變之出於後者、六經不能言、固貴約六經之旨、而隨時撰述以究大道也。(そもそも道は六経に備わるものであるから、〔六経中に〕含蓄された六経成立以前の義については、章句訓詁によって明らかにできる。〔しかし〕状況が変化した後の事柄については六経は言及することができない。そこで六経の主旨を約取して時勢に応じて撰述をし、大道を究めることが尊ばれるのである。)」(文史通義・原道下)と、六経ですら、完全には時宜の変化に対応し得ないとまで言い放つのである。

 章学誠の魅力の一つには、章学誠のこうした大胆な考えや歴史観が、(理論的に体系立っているとまで言えるのかは分かりませんが、)著述の中である程度一貫して見えることがあると思います。劉咸炘と章学誠についての文章を目下執筆中ですが、あちこちに興味深い議論が転がっています。

 

 ちなみに、時代は大分遡りますが、朱子の「事勢」についての考え方が、三浦國雄「氣數と事勢 : 朱熹の歴史意識」(『東洋史研究』42(4)、1984)に考察されています。こちらもぜひご参照ください。

 

(棋客)