達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

「大史書曰、崔杼弒其君」の逸話

 中国古典のなかでも屈指で有名な逸話ですね。やはり何度読んでも含蓄があります。

『左伝』襄公二十五年

 大史書曰、崔杼弒其君。崔子殺之。其弟嗣書、而死者二人。其弟又書、乃舍之。南史氏聞大史盡死、執簡以往、聞既書矣、乃還。

(訓読)大史 書して曰はく、「崔杼 其の君を弒す」と。崔子 之を殺す。其の弟嗣ぎて書し、死する者二人。其の弟又た書し、乃ち之を舍(ゆる)す。南史氏 大史盡(ことごと)く死するを聞きて、簡を執りて以て往き、既に書するを聞き、乃ち還る。

(翻訳)大史(公式文書を記録する官職の人、史官)が「崔杼が君主を殺した」と記録した。崔杼はその人を殺した。その人の弟が後を継いで記録すると、死んだ者は二人となった(弟も崔杼に殺された)。その弟がさらに記録すると、やっと記録することを許した。南史氏(他の大史の人)は、 大史がみな死んでしまったと聞いて、(記録用の)竹簡を持って行き、もう記録されたと聞いて、そこで帰って行った。

 魯の襄公二十五年(紀元前548年)に、斉という国で起こった出来事です。崔杼が自らの君主を殺すという出来事が起こった時、当時の史官がそれをそのまま記録しようとして、殺されてしまうが、また後続の史官が同じことを記録する、という話です。

 なぜ、当時の史官はここまでして「正しい記録を残す」ことに執着したのでしょうか。そして、崔杼はなぜその記録が残されることを嫌がったのでしょうか。そもそも、記録を残す、歴史を残すというのはどういう行為なのでしょうか。そして現代でも、こういう話を聞いたことはないでしょうか。

 色々なことを考えさせられる逸話です。

 

 ちなみに、『史記』にも同じ話が見えますが、少し言い回しが違っています。

史記』齊太公世家・莊公六年

 齊太史書曰「崔杼弒莊公」、崔杼殺之。其弟復書、崔杼復殺之。少弟復書、崔杼乃舍之。

 こんな作品もあります。

(棋客)