達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

ジェームズ・C・スコット『ゾミア―― 脱国家の世界史』

 最近、ジェームズ・C・スコット『ゾミア―― 脱国家の世界史』みすず書房、2013)を少しずつ読んでいます。とても長い本で、まだ読み終えてはいないのですが、読みごたえがあって面白い本です。全体の枠組みと、過去の研究、そして筆者のフィールドワークが鮮やかに整理されていて、主張と意図がよく伝わります。

 この本は、世界最大の無国家空間としての東南アジア大陸部の山岳地帯=「ゾミア」を取り上げ、その歴史を語るものです。ゾミアは、数百の民族集団からなり、5以上の語族に分かれ、一つのまとまりがあるというわけではないのですが、いずれも国家から逃れ、自治的な暮らしをする人々の集団であるという点に共通項があります。

 

 スコットが描く構図は以下のようなものです。

 拡張する国家と、自治を維持する人々がいる。国家が登場した頃、その外側には広大な土地が広がっており、農民はそこから逃れることができた。しかし、土地の全てを掌握しようという流れ=「囲い込み運動」が起こると、状況が変化した。囲い込み運動は、権威主義新自由主義共産主義・ポピュリストといった立場の相違に関係なく起こってきたことで、つまり近代国家の構造に組み込まれたものであると言える。

 囲い込み運動の目的は、辺境の人々・土地・資源を統合すること、それを金銭に変えること、そして徴税・監査の対象とすること。これによって、国家は、これ以前の「国家」とは別物の、新たなフェーズに突入した。

 よくある物語では、国家とは繁栄や平和の象徴で、辺境の野蛮人はそれに魅了される、という文明史観が語られていた。しかし、初期国家の人口の大半が奴隷民であること、そして支配下の人々が国家から逃げ出すのが常見される現象であることから、この物語が虚構であることが分かる。国家統治下に生きることは、徴税・賦役などの負担を負うことで、国家の拡張から人々が安全を求めて逃避することは多かった。

 このように考えると、統治機構の外にいる「野蛮人」というのは、文明に取り残されたのではなく、その人々の意図的な選択の結果であって、一つの政治主体として見るべきだ、ということになる。つまり、「野蛮」として一括りにされる文化とは、「未開のままに取り残された古代からの伝統・慣習」ではなく、「外部国家への編入の抑止」(=国家からの逃避)と、「内部の権力集中化の抑止」(=国家建設の阻止)のために、意図的に設計されたものである。

 そして、その意図的な設計の結果が、地理的な周縁性・移動性・焼畑農業・流動的社会構造・宗教的異端・平等主義・非識字・口承文化といった形で表れている、というのがスコットの主張である。たとえば、スコットは、ゾミアの人々の多くが文字を持たないことを、国家によって容易に統治されることを避けるための手段の一つ、というように考える。

 

 説の成否は置いておいて、こうした価値判断の転換を示す手際の鮮やかさには惹きつけられるものがありました。

 

 抵抗の手段としての言語という考え方は、以前紹介した『夕炎の人』とも通じるところがありますね。

 文フリで買った本④―『夕炎の人』 - 達而録

(棋客)