達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

「名前の無い関係性」としてのみわと冴子~たみふる『付き合ってあげてもいいかな』

 色々な作品を批評していくシリーズ。今回は、たみふる『付き合ってあげてもいいかな』という、最近勧められて読んだ漫画について書いてみる。一部ネタバレを含むので、未読の方はお気をつけください。なお、私が批評記事を書く時の前提について、前の記事に書いたので、見ておいてください→埋没しないマイノリティ〜the pillows「ストレンジカメレオン」 - 達而録

 大前提として、私は漫画を読んだ経験が取り立てて多いわけではないので、他の漫画と比較するとか、この漫画のこういうところが新しいとか、そういう観点からは書かないことにする。一応、自分の読書体験の中から絞り出しておくと、なんとなく『NANA』っぽくて、ほんのり『作りたい女と食べたい女』のテイストもありつつ、とにかく展開を爆速にした漫画、という印象だろうか。

 本作は、主人公二人(犬塚みわ・猿渡冴子)の女性同士の恋愛を描いたものである。同性愛を描く作品には、たとえば男子校・女子校などを舞台にし、外の世界を全く描かず、内側で完結した一種のユートピアを描き出すタイプのものもある。ただ、本作は、外の世界と隔絶された世界での出来事を描くわけではない。主人公二人の生々しい葛藤を徹底的に描きながらも、その二人を含めたコミュニティと、さらにその外側の世界との関わりがよく描かれている。

 典型的なのは、マイノリティが社会から受けるマイクロアグレッションを描くシーンが多いことである*1。たとえば、主人公二人が近い距離で触れ合っていると、他の先輩に「そっち系と思われるよ」と言われる(15話)。二人でデートしていると、カップルと思われず、男性にナンパされる(13話)*2。同窓会に行くと、男が好きなフリ、恋人がいないフリをする(24話)。親には、同性愛者としての娘を応援する代わりに、自分は孫を諦めたのだと言われる(78話)。友達に、男にももてそうなのに「もったいない」と言われたり、「普通の幸せ」を手放してまで女性と付き合うなんて、運命っぽくて「尊い」と言われたりする(78話)。そして、こうしたマイクロアグレッションに遭遇した時に、主人公やその周りの人が傷つく様子もきちんと切実に描かれている。

 しかし、こうしたシーンが過度に強調され、悲劇の主人公としてのマイノリティ性を消費するような作品になっているわけではない。むしろ、別に何事もないこととして周りの人が受け取っていて、主人公たちは基本的に「普通にそこにいる」存在として描かれ、主人公二人の関係性の葛藤を主軸に物語が展開する。この大枠は、本作の冒頭で定まっていて、最初にカミングアウトした男子同級生には、二人の関係について「ふーん、そう、で?」としか思いつかん、と言われている(4話)。また、ある部活の友人が、普通に接することができているか不安に思い、他の友人と話し合うシーンもあったりする(11話)。

 加えて、社会の抑圧に対し、直接立ち向かう力強い言葉も発される。うっかり自分が同性愛者であることが友人にバレて青ざめた時、その友人は、「そんなに青ざめるほど嫌なことがあった」ことに対して、「世の中終わってますね」と怒りを表明する(58話)。母に理想を押し付けられた時には、「一人一人中身も事情が違うのに、決めつけられること」への嫌悪感が表明される(79話)。親に同性愛を否定された時、「せめて自分のことは自分が一番大切にしよう」と決める(26話)。自分が女性と恋愛していることをみんなの前で話した主人公に対し、ある後輩が、自分がゲイかもしれないと感じていることを主人公に伝えに来る(110話)。

 

 そして、もう少し広い意味での社会通念(特に恋愛観や性愛中心主義)に対するカウンターが、キャラクターのさりげない発言の中に上手く仕込まれていることも指摘しておきたい。

 たとえば、セックスに対する考え方として、「(セックスを)しないカップルもいる」(5話)という発言や、同性愛のセックスは本当のセックスではないのではという問いに対して「本能で求め合うもの」としてのセックス観が提示される(10話)。また、女性の同性愛者というアイデンティティがある人の中でも、男性との経験がある人、ない人が両方描かれている。恋愛に特に興味が湧かない人が、自分の感覚を言葉にしようとしてノートに書き連ねるシーンもある(14話)。「恋人になるか縁を切るか」の二択に疑問を呈し、「好きの種類を変え」て、相手の幸せを祈る「推しとして好き」という感覚を提示したりもする(21話)。

 物語が進むと、徐々に、恋人同士ではなく、「名前の無い関係性」としての主人公二人の紐帯が描かれていく。二人は、悩み、葛藤しながらも、「新しい相手ができたからもう会えない」とか、「自分にとっても相手にとっても唯一の居場所でないといけない」とかいった、恋愛にまつわる(モノガミー)規範的な意識を少しずつ剥ぎ取っていく。そしてそれと同時に、ままならない欲求としての、支配欲や独占欲、嫉妬の感情もよく描かれている。

 また、「大学生→就活→就職」というレールに対する(おそらく作者なりの)抵抗として、さまざまな人生を歩んでいるレズビアンが集まるコミュニティが提示されたりもする(115話)。

 この作品の主軸は、主人公二人が、他の色々な関係性を巻き込みながら、自分の心をそのままに安心できる居場所を求めて奮闘するところにある。その意味では、以上で取り上げたポイントは、むしろ本作の中では背景的な立ち位置にあるのであって、メインとなるのはあくまで主人公二人の葛藤と関係性である。ただ、こうした背景がバランスよく描かれているので、とても展開が早く、コミュニケーションがやや雑だったり、若干回収不足の感が否めない話があったりしても、全体として読み応えのある作品になっているのだと思う。


 さて、このブログでは、「(セクシュアル)マイノリティを作品で描くに当たって、いまどのようなことが求められるか」ということを何度か話題にしてきた。

 一言で言えば、キャラクターのマイノリティ性を、(ポジティブであろうがネガティブであろうが、)物語を動かすためのパーツとして消費せずに描き切ることが求められていると思う。これはそんなものをギミックにしなくても面白い作品を作って欲しい、という願いでもある。

 本作はまだ続いている作品なので、今後どうなるか分からないけれど、少なくともここまでは、誠実に一人一人のキャラクターとその動きに向き合った作品だと感じている。続きが待ち遠しい。

(棋客)

*1:以下、カッコ内に何話で出てくるか書いていますが、数話にわたっての内容を含む場合、若干ずれがあると思うので、あまり当てにしないでください。

*2:このシーンについては、作者あとがきで映画「キャロル」に触れている。