達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

考証学における学説の批判と継承(1)

 現在、大学の演習である考証学者の剳記を読んでいます。その予習で毎週色々と調べることになるのですが、特に乾嘉の学以降の考証学者となると、一つの小さな学説にも他の学者の説との継承関係(賛成・反対の両者を含む)が見られて非常に興味深いです。
 そのうち一つの例について、実際に演習でも少し議論をしたのですが、折角なので増補してまとめておこうと思います。似たような例は種々に見つけられるでしょうし、その一つ一つが少しずつ異なる関係で継承されていると考えると、そこには無限の広がりが感じられるところです。また面白い例があれば、時おりまとめてみようと思います。

 今回話題にするのは、『尚書正義』のある一段の解釈についてで、全五〜六回のシリーズとなる予定です。解釈の問題といっても訓詁学的な話ではなく、根本は非常にシンプルな問題なのでとっつきやすいところだと思います。漢文に心得のある方は、進度はゆっくりですが少々お付き合いください。

 問題の疏文はこの部分。堯典篇には長大な題疏があるのですが、その一部分です。

○『尚書』堯典(阮元本『尚書注疏』卷二 三葉上)

 (疏)以庸生賈馬之等、惟傳孔學經文三十三篇、故鄭與三家同以爲古文、而鄭承其後、所註皆同賈逵馬融之學、題曰古文尚書、篇與夏侯等同。而經字多異、夏侯等書「宅嵎夷」爲「宅嵎䥫」、「昧谷」曰「柳谷」、「心腹腎腸」曰「憂腎陽」、「劓刵劅剠」云「臏宮劓割頭庶剠」、是鄭註不同也。

 『正義』の邦訳は目下進行中というところですが、幸い『尚書正義』に関しては吉川幸次郎先生による全訳がありますので、参考までに掲げておきましょう。

 すなわち庸生や賈とか馬などという連中は、ただ孔派の経文三十三篇を伝えただけであって、それで鄭も三家(大夏侯氏、小夏侯氏、歐陽氏)も同様にそれを古文と考えていたところへ、鄭がその後を承けたのであるから、注をしたものは賈逵や馬融の学問と全く一致し、古文尚書とは銘うちながら、篇は夏侯などの方と一致するのである。しかし経の文字は屡々違っているのであって、夏侯などの書の方では、「宅嵎夷」を「宅嵎䥫」とし、「昧谷」を「柳谷」とし、「心腹腎腸」を「憂腎陽」とし、「劓刵劅剠」を「臏宮劓割頭庶剠」とするあたりが、鄭注と同じからぬ点である。(吉川幸次郎訳『尚書正義』第一冊、岩波書店1940、94頁)

 余談ですが、吉川幸次郎訳『尚書正義』に附された「訳者の序」は、現代において経学を研究することにどのような意義が有るのか、またどのように研究すべきか、ということを論じる名文でよく紹介されています。当然その訳も偉大な業績ですが、序文も是非。

 さて、上の疏文は鄭玄の尚書学の淵源を述べている点でも重要ですが、今後の議論の中心となるのは、ただ鄭玄本と夏侯氏本の異同を述べている後半の部分です。つまり上の吉川訳で、鄭玄本が「宅嵎夷」「昧谷」「心腹腎腸」「劓刵劅剠」(上四句)となっているところを、夏侯氏本では「宅嵎」「柳谷」「憂腎陽」「臏宮劓割頭庶剠」(下四句)に作っていた、と解釈する辺りです。
 この吉川訳は、正鵠を得た読解です。というより、先の文を読む限りでは、多くの方は「上の疏文はもともとそうとしか読めないではないか」「疑義の生じようがないのではないか」と思われるかもしれません。しかしながらこの部分、考証学の泰斗である閻若璩は異なる読解をしているのです。
 もしかすると、「閻若璩は異なる読解をしていた」と聞いただけで閻若璩の解釈が浮かぶ方もいらっしゃるかもしれません。ヒントとして、現行本『尚書』は「上四句」の方の字に作っていることを挙げておきます。

○閻若璩『尚書古文疏證』巻二 言晩出書不今不古、非伏非孔

 古文傳、自孔氏後、唯鄭康成所注者得其真。今文傳、自伏生後、唯蔡邕石經所勒者得其正。今晚出孔書「宅嵎夷」鄭曰「宅嵎」、「昧穀」鄭曰「柳穀」、「心腹賢腸」鄭曰「憂腎陽」、「劓刵劅剠」鄭曰「臏宮劓割頭庶剠」、其與真古文不同有如此者、不同于古文、宜同于今文矣。而石經久失傳、然殘碑遺字、猶頗收于宋洪適隸釋中。・・・

 閻若璩は「今晚出孔書『宅嵎夷』鄭曰『宅嵎䥫』・・・」と述べています。つまり下四句を鄭玄本と考えているのです。必然的に上四句が夏侯氏ということになり、先の解釈とは逆の解釈になります。ここでは一つの取り違えがそのまま四カ所の本文の読みに影響するので、由々しき問題と言えます。(また後の記事で出てきますが、一カ所の経文の異同であっても他書の読解や校勘に大きな影響を与える場合があります。)

 ここで少し、閻若璩の論理を追っておきましょう。先に述べたように、上四句は現行本の字句でもありますから、この読解の場合、「現行本・夏侯氏の上四句」と「鄭玄本の下四句」の差異を述べる疏文と受け取ることになります。すると現行本(偽古文)は、鄭玄本(真古文)とは異なるが、夏侯氏(今文)とは同じ、という状況が生じます。
 そもそも閻若璩『尚書古文疏證』は、古文と称する『尚書』の現行本が、実は後人に係る偽作であることを証明することを志した書です。そんな閻若璩にとってみれば、真古文を残している鄭玄本と、古文を騙る現行本の異なる部分というのは、自説の根拠として非常に重要な意味を持ちます。何故ならその部分こそが「現行本によって偽作された部分」そのものとなるからです。しかもこの場合、その現行本の部分が逆に今文と一致するという倒錯した状況までセットで付いてきます。これも偽作を証明したい閻若璩にとっては都合が良いのです。

 以上のような背景が閻若璩を誤読に至らしめたのではないか―つまり「逆に読んでしまった」というより、「その背景のもと読むと最早そうとしか読めない」のではないか、それが現時点での私の考えですが、如何でしょうか。(もし閻若璩以前に同様の説を立てている人がいれば、是非ご教授下さい。)

 さて、ここまで読んでいると、当然「閻若璩の読みは本当に誤りなのか?」「誤りだとしたらいつ誰が正したのか?」といった疑問が浮かぶことでしょう。
 今日の記事だけであれば、単に閻若璩一人の特徴的な論理展開を見ただけで終わってしまいますが、この解釈が後の考証学者たちにどう受け継がれていくのか、またどう批判されるのか、というところに話は続いていきます。江声、王鳴盛、段玉裁、銭大昕といった錚々たる面々が登場し議論は白熱するのです。今日はここまで。

 

※上海古籍出版社によって出版された『尚書古文疏證』の標点本には、黄懐信氏による前言が附されています。この前言では本書の各条を詳細に論証しその是非を判定しているのですが、そこでもこの条の誤謬が指摘されています。参考まで。

※清代の学術史の概観としては、梁啓超『清代学術概論』(東洋文庫、小野和子訳)などがありますので、興味のある方はお読みください。閻若璩『尚書古文疏證』についての専論は吉田純『清朝考証学の群像』(創文社、2006)等にあり、和訳は一部が『東洋古典学研究』に掲載されています。

(棋客)

↓つづき

 

chutetsu.hateblo.jp

 

 

大形徹「王弼の『論語釈疑』」―論文読書会vol.11

※論文読書会については「我々の活動について」を参照。

本論文はオンライン上で公開されています。

 

【論文タイトル】

大形徹「王弼の『論語釈疑』:『老子』の思想で解釈した『論語』」大阪府立大学人文学会『人文学論集』1986, 4, p.1-15)

【要約】

 本論文は、魏の王弼による『論語』の注釈書『論語釈疑』に関する研究である。内容は大きく三分される。まず『釈疑』自体の成立について、特に何晏『論語集解』との先後関係を問題として考察する。次に、『釈疑』に現れる特徴的な思想について、トピックごとに論じる。最後に、王弼自身の生涯をよすがとしつつ、『釈疑』の著述意識やその思想史的意義について論じる。

 筆者は第一章で、『釈疑』と『集解』の先後関係を論じる。筆者は『集解』に『釈疑』の説が見えないことと、両著の内容面の差異(『釈疑』に『集解』を敷衍したと思われる記述が見えること)を手掛かりに、全章に詳細な注の付された『集解』の完成の後に、王弼が疑問を持った箇所に注釈を附し、『釈疑』が編まれたと結論付ける。つまり、『釈疑』は『集解』を敷衍もしくは反駁しており、そこには『集解』とは異なる王弼の『論語』解釈の特徴が明確に表れているということになる。

 第二章では、上述した「王弼の『論語』解釈の特徴」について、「仁」「道」「本末」「孔子老子の関係」という四つのテーマに焦点を当てて論じる。ここでは特に王弼「老子注」と対応させることで、王弼自身の思想を念頭に置きつつ『釈疑』の思想に迫る。王弼は『論語』に注する時、特に『老子』と共通して見える語に着目し、そこを『老子』的に解釈することによって、両者を一つの思想に体系化しようとした。ここでは、孔子老荘思想の具現者とされ、儒教老荘思想の中に取り込まれていると言える。筆者は、「仁」といった儒教的価値観を否定するのでなく、容認しながらも取り込み、老荘思想を上位において体系化したところに『釈疑』の特色があると結論付け、同時にこれは『老子』そのものに含まれている思想と等しいと述べる。

 最後に総括として、『釈疑』の執筆動機とその思想史的意義について論じる。一般的に『集解』は、老荘の解釈を交えながらも、全体としては儒教の枠を越えないとされるが、『釈疑』は『老子』の思想体系の中に『論語』を組み入れようとしている。筆者はこの違いを、王弼が儒教的教養を身につける前に道家を学んだことが影響しているのではないか、と説明する。すると「何故『論語』に注釈を付けたのか」という疑問が生じる。これには、王弼が立身出世を求めており、官界に取り入るために老荘儒教の二面性を求める必要があったのではないか、と述べる。

 『釈疑』は同時代的にはあまり注目された形跡がない。その上、王弼が立身出世のために記した書となった場合、その思想史的意義はどこに与えられるだろうか。王弼は『論語』が『老子』の思想体系の中にあることを証明しようとし、これにより『論語』本来の意図を逸脱することも屡々である。しかし、老荘から儒教に近づいた者は少なく、儒者が黙殺していた『論語』に元来含まれる道家的一面を取り出したところもある。これこそが王弼の功績であり、『釈疑』の思想史的意義はここに認められると筆者は結論づける。

【議論】

・特に最終章について議論があった。

・「官界で立身出世を遂げるためには、老荘だけではよくない」といった言説が、この時代でも成立するのかどうか、論拠が不十分に思える。ここで政治史的議論を展開するのは論文の主旨から逸脱するが、少なくとも先行研究の明示は必要ではないか。

・上の「王弼は立身出世のために儒教に接近し、『釈疑』を記した」という説が正しいとして、これが「『釈疑』は『論語』を老子的に解釈した注釈書である」という前段の結論と整合性が取れているのかどうか、少し引っ掛かる。立身出世のために儒教に接近すると言いつつ、『論語』を『老子』的に解釈してしまっては元も子もないように思えてしまう。ここはもう少し説明が必要か。

・「王弼は儒学より老荘を先に学んだのではないか」という指摘も、ここで言及する必要があるのかよく分からない。史料に記載がない以上解明しようがない問題であると思われるが、言及する以上は、王弼の生涯への史学的研究や、魏晋期の教育についての研究が必要となるように考える。

 

【良質講義動画】広島大学の「中国思想文化学入門」を紹介

動画

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HiCE003: 中国思想文化学入門

 Twitterで上記の動画(HiCE003: 中国思想文化学入門、広島大学が公式に公開している有馬卓也先生の講義)を紹介したところ、予想外に多くの反響がありました。この動画は、先秦から漢代にかけての「天」と「命」に焦点を当てながら、完全な初学者でも理解できるよう噛み砕いて説明するもので、非常に分かりやすい講義になっていると思います。

 ここではこの講義を視聴した方のうち、「入門」からもう一歩進んでみたいと考えた方のための参考書を紹介します。中国思想に興味を持っている皆様の勉強の役に少しでも立てれば幸いです。

講義の概要

  • 冒頭「占い・易」について
  • 5分前後から「災異説」
  • 10分前後から「殷周革命と天命」
  • 15分前後から「天命の二種類の解釈」
  • 26分前後から「『淮南子』と遇不遇論・応時遇化論」

参考書 

  • 概説書

溝口雄三・小島毅・池田知久 「中国思想史」(東京大学出版会)
湯浅邦弘「概説中国思想史」(ミネルヴァ書房)

中国思想史について概説的、通史的に把握するには、上記の二冊がおすすめです。上の講義の内容は漢代に絞った解説ですが、大抵の概説書で漢代思想は分厚く扱われており、まずは参考になるでしょう。

  • 入門書

金谷治「易の話」 (講談社学術文庫)

『易』の持つ占いの側面と思想の側面の両方について非常に分かりやすい解説があります。

小南一郎「古代中国 天命と青銅器―諸文明の起源」(京都大学学術出版会)

青銅器を用いた考古学的方法によって、殷代周代を考察しています。天命や徳といった思想的概念についての考察もあります。

浅野裕一「儒教 ルサンチマンの宗教 」(平凡社新書)

講義の中で、孔子の言った「天命」という言葉に二種類の解釈の余地があり、それは孔子観の違いに基づくという話がありました。本書は、「政治改革に失敗した人物としての孔子」により焦点を強く当て、その人物像を描写しています

金谷治「淮南子の思想 老荘的世界」 (講談社学術文庫)

講義の後半で触れられていた、『淮南子』という書物についての入門的な解説書です。

  • 翻訳書

本田済「易」―中国古典選〈10〉 (朝日選書)

『易』という本の全訳。『易』の内容そのものを読んでみたい人におすすめ。

日原利国『春秋繁露』 ―中国古典新書(明徳出版社

抄訳です。董仲舒が災異説を唱える基本文献です。

宮崎市定「史記列伝抄」(国書刊行会)

「殷周革命」についての基本文献はまずは『史記』ということになるでしょう。宮崎市定は言わずと知れた東洋史の大家。これは伯夷叔斉伝を含む『史記』の列伝の翻訳です。

小竹文夫・小竹武夫 『史記』1本紀 (ちくま学芸文庫)

史記』本紀の全訳。殷本紀の後半部分と周本紀の前半部分に殷周革命について書かれています。ちなみに、本紀の大部分は『尚書』からの引用なので、更に興味がある方は、『尚書』についても調べてみると良いと思います。

吉川忠夫・冨谷至訳「漢書五行志」 (東洋文庫)

後漢に編まれた『漢書』の五行志には、災異説の事例が大量に載せられています。『漢書』は『史記』からの継承部分も多いですが、「五行志」は新たに作られており、五行思想や天人相関論の流行が見て取れます。

池田知久「訳注「淮南子」」 (講談社学術文庫)

淮南子』の抄訳。

 

「顔真卿展」に行ってきました。

  先日、東京国立博物館の「顔真卿展」に行ってまいりました。

ganshinkei.jp

 展示期間の終了も残り一週間少々に迫っておりますが、これから行く方の参考になればと思い、つらつらと書いてみます。

 大前提、いつ行っても混雑しています。中国人ばかりという声もありましたが、むしろ意外と日本人も多いな、というのが私の印象でしょうか。目玉の「祭姪文稿」は、開館の9:30から11:00頃までに行けば、10分待ちで見ることができます。が、昼には30分待ち、夕方はそれ以上とどんどん待ち時間が伸びるので、朝一番に行くことをお勧めします。

 今回初来日した「祭姪文稿」が如何に貴重で、日本での展示に当たって中国・台湾で議論を巻き起こしたことは、既に様々な記事で取り上げられています。

diamond.jp

 勿論、一番の目玉はこの「祭姪文稿」でしょうが、他も非常に充実しています。同じく故宮博物館の懐素「自叙帖」といった唐代の肉筆だけでなく、前に遡って王羲之や初唐の三代家や、下って蘇軾や黄庭堅、清の趙之謙など、書道史を語る上で外せないところを網羅しています。「顔真卿展」という名前ではありますが、前後に幅広く、非常に網羅的な展示になっており、その量・質ともに非常に高いと言えるでしょう。(中哲ブログとしては、唐抄本の『説文解字』や『古文尚書』『毛詩正義』『荘子』などに感銘を受けました。)

 さて、東京国立博物館東洋館と、台東区書道博物館で展示されている「王羲之書法の残影―唐時代の道程―」も一見の価値があります。
 むしろ、「顔真卿展」は人が多すぎて見るのも一苦労なので、先に台東区書道博物館を観て、少し予習してから行くのも良いかもしれません。一部被っている展示品もありますし、両方行くと割引もあります。 

 書道史でなく、顔真卿そのものについて予習をして行きたいのであれば、最近発売された吉川忠夫『顔真卿伝』が最も良いでしょう。なぜ顔真卿なのか、そしてなぜ顔真卿でこれだけたくさんの人が集まるのか、よく分かると思います。新刊で入手も容易ですので、是非どうぞ。

 吉川忠夫先生はもともと顔氏一族の研究を盛んに発表されています。更に興味をお持ちの方は、研究書になりますが吉川忠夫『六朝精神史研究』などがあります。とはいえ今では入手困難な書籍も多いので、一般公開されている論文を掲げておきます。
 ・顔之推小論(『東洋史研究』20巻 4号  353~381頁)
 ・顏師古の『漢書』注(『東方學報』51巻 223~319頁)
 どちらも、顔氏一族の学問を考える上で、今でも出発点となっている研究です。

 また、公式図録も大変充実していてお勧めです。全編カラーでこの厚さで2800円なら納得でしょう。同じく、先に述べた「王羲之書法の残影―唐時代の道程―」の図録もあります。南北朝期の書の歴史に関しては、こちらの図録の方が解説が丁寧かつ通史的で分かりやすいです。こちらは1000円。

 「顔真卿展」の終了まで、残り十日ほど。今後これだけのものが一同に会するのは、いつのことになるか分からないでしょう。しっかり予習していくも良し、ふらっと遊びに行くも良し。全力でお薦めです。

濱久雄『中国思想論攷―公羊学とその周辺』

はじめに

 本日は、終戦直後に大学を卒業し、自作農として晴耕雨読の生活を送りながら漢文に親しみ、後に研究の世界にカムバックした研究者のお話。

 濱久雄『中国思想論攷―公羊学とその周辺』(明徳出版社、2018)のあとがきを一部引用します。

終戦

 翌日の朝、池袋駅につき、一面焦土と化した惨状に接し、しばし茫然と立ち尽くした。しかし、幸運にも練馬区中村橋の自宅は無事であった。翌日、大東文化学院に行くと、すでに爆撃によって焼失し、跡形もなかったが、近くにある立教大学は無傷であった。早速、神田に赴いたが、書店街は無事でほっとした。山本書店にゆき、康有為の『新学偽経攷』『孔子改制攷』『大同書』を発見して購入し、意気揚々として帰宅した。

 同じ時代を生きた研究者にも、少しずつ違いはあるものだと感じます。文章から受ける印象ですと、川原先生に比べると濱先生には少し余裕があったのでしょうか。もしくは単に、専著を執筆中であった川原先生と、戦地に赴かず除隊した学生であった濱先生の立場の違いということかもしれません。いずれにせよ、荒れ果てた街に茫然としながらも、最初に書店で本を買う姿には心を打たれます。

終戦直後の大学

 少し省略して、大学の卒業試験についての一段。大学の校舎が焼失していたため、学長の邸宅を仮校舎とし、試験は青空のもと行われたようです。

 芝生の上で行われた『論語』の卒業試験では、高田真二先生が籐椅子に坐られ、試験監督をされた光景が鮮やかに思い出される。実に前代未聞のことであり、二度と在ってはならないことである。試験問題は、顔淵篇の「子貢、政を問ふ。子曰く、食を足し、兵を足し、民にはこれを信ぜしむ。……」の一文に訓点を施し、解釈するもので、実に終戦の当時に象徴的な出題であった。

 青空の下の卒業試験とその内容。これほど身につまされる試験というのもなかなか無いのではないでしょうか。

 全体として、濱久雄先生は平易ながら骨と癖のある文章という印象を受けました。