達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

開設二周年&50000pv御礼&近況

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 おかげさまで、丸二年、週一回の更新を欠かさず続けることができました。たまにいただけるスターやブックマーク、コメントは大変力になっております!!

 合わせて、50000pvを達成しておりました。専門的すぎる記事も多い中、たくさんの方に読んでいただけて嬉しい限りです。

 

 中の人の一人は、九月から留学が始まりました。まだ渡航規制が緩まらず、実家からオンライン留学という微妙な状況になってしまいました。しかし、これをむしろ好機として、日本にいながら海外の授業を受けられることのメリットを最大限に発揮しようと考えています。

 もともと、私は受験勉強を実家でしていたわけで、そのころの感覚を思い出しながら集中して勉強できています。勉強に疲れたら、家事で気分転換をしながら、テレビ画面で中国ドラマを流すこともできますし、大音量で中国の音楽を流すこともできます。もちろん、語学学習を考えるとやっぱり現地生活には叶わないでしょうが、動画全盛のいま、かなり近い環境は作れるはずです。

 最近は、一日が朝食に始まり、中文音読→勉強→ランニング→オンライン授業→勉強というルーティーンの健康的な生活を送っていて、久々に充足感を覚えています。

 

 ちなみに最近は、「以家人之名」というドラマにハマりました。おススメです↓

 

 

 

 また、実家には研究の上で必要最低限の本は(ごく僅かですが)持って帰ってきましたので、毎日少しずつ論文を書き進めています。一本は春先から書いてきた劉炫に関する論文。もう一本は以前書いた記事→『毛詩』小雅・斯干疏・翻案からいろいろ調べているうちに、分量が増えてきたものです。こちらはまだ論文として整理できるかどうか分からず、目下作業中です。いつか日の目を浴びる日が来ればよいのですが、どうなるでしょうか。頑張ります!

 

 オンライン留学がどのようなものか、ということに興味がおありの方が多いと思います。まだ始まったばかりですので、慣れてきてからまた皆様に紹介しようと思います。

 

 最後に宣伝ですが、Amazonの「ほしいものリスト」を更新しました。楽しく読んでいるよという方、ぜひご支援ください。

 →「達而録」ほしいものリスト

瞿同祖『中国法律与中国社会』の紹介(2)

 瞿同祖『中国法律与中国社会』(中華書局、1981)、第四節「親族復讐」の翻訳の続きです。p.77~になります。

 今回は、中国における「復讐」行為について、その実例や、それに対する処罰を具体的に見ながら、整理するところです。

 『周礼』では、復讐に関する様々な規定が設けられている。復讐には法で定められた手続きがあり、復讐を専門に司る官吏もいる。事前に朝士処で仇敵の姓名を登録してさえいれば、仇敵を殺したとしても無罪になる。また、調人という官職は、復讐を避けて和解することを専門に司り、また復讐がただ一回限りのものであって、再度復讐を繰り返すことを禁止している。

 戦国時代、復讐を行う風潮はたいへん盛んであり、任侠の気風のもとで、義憤にかられた人が仇討ちのための刺客となった。『孟子』には、「吾今而後知殺人親之重也、殺人之父、人亦殺其父。殺人之兄、人亦殺其兄。然則非自殺之也、一閒耳。」とある。この一段は、孟子が自ら多くの復讐の事例を見て,心を痛ませ感嘆し、書かれたものであろう。先秦時代は、復讐の自由な時代であったといってよいであろう。

  この『孟子』の一段の朱子注は、「言今而後知者、必有所為而感発也」とあり、孟子の感嘆の意が表れていることを注意しています。

 まず経書の記述、先秦時代の記録から、中国の復讐行為を整理していき、次の段では漢代に入っていきます。非常に長い段落なので、読みやすいように段落分けを施しました。

 法律機構が発達してくると、生殺与奪の権利は国家のものとなり。私人が勝手に人を殺す権利もなくなり、殺人はそのまま犯罪行為となり、国法の制裁を受ける必要があるようになった。このような状況のもとでは、復讐は国法と相容れないものになり、徐々に禁止されるようになった。だいたい紀元前一世紀の法律において、既にこの種の努力が始められている。

 桓譚は、建武年間の初めに上疏し、「今人相殺傷、雖已伏法、而私結怨讎、子孫相報、後忿深前、至於滅戶殄業・・・今宜申明舊令・・・」(『後漢書』桓譚列伝)という。これにより、少なくとも前漢末にはすでに復讐を禁止する法律があり、桓譚は光武帝に対してすでにある法律を重ねて表明し、悪風が広がるのを防ごうとしただけであるということが分かる。近人の程樹徳は、王褒「僮約」を引いて、漢律は復讐を許していることを明らかにしたが、実は「漢時官不禁報怨」とあるのは後人の注釈であって、「僮約」の原文ではないから、証拠とするには足りない。一世紀の法律は復讐の企てを禁止しており、この努力が既に成功していたことは明らかである。

 例えば、緱氏の娘の玉は、父のために仇を討ち、県令はこれを死罪に処すところであったが、これを申屠蟠が諫めて、ようやく死罪を免じられた(『後漢書』申屠蟠伝)。

 また、趙娥の話が最も分かりやすい。彼女は父の仇を殺した後、県令に自首したが、福禄長の尹嘉は彼女に同情し、自身の印綬を放ち、自分も官位を捨て逃げる用意をした。彼女は同意せず、「怨塞身死、妾之明分、結罪理獄、君之常理、何敢偸生以枉公法」と述べた(『後漢書』列女伝、龐淯母、また『魏志』引皇甫謐『列女伝』)。この時、堂上の観衆が既に集まっており、守尉は公然と彼女を許す勇気がなく、彼女に自ら逃げるように仄めかしたが、彼女はやはり同意せず、抵抗して大声で「枉法逃死、非妾本心。今讐人已雪、死則妾分。乞得歸法、以全國體。雖復萬死、於娥親畢足、不敢貪生為明廷負也。」と述べた。守尉が執行を許さないと、娥はさらに「匹婦雖微、猶知憲制。殺人之罪、法所不縱。今既犯之、義無可逃。乞就刑戮、隕身朝巿、肅明王法。」と述べた。ここから、当時の法律では絶対に復讐行為を許すことがなかったことが分かる。だから、守尉は彼女に同情していたけれども、官位を捨てて犯人とともに逃げる以外に、彼女を救う方法がなかったのである。趙娥の話は、当時の法律における殺人の制裁が、復讐であっても決して例外にならなかったということを、その一言一句から物語っている。

 緱氏の話は安帝・順帝の頃、趙娥の話は霊帝光和二年のことであり、ここから少なくとも二世紀(後漢末)には復讐は国家によって禁止されていたことが分かる。・・・

 注釈は省略していますが、非常に細かくつけられています。 

 さて、漢代に入って復讐は国家権力によって禁止されたわけですが、だからといってすぐに根絶されたわけではなく、その風潮はまだ続いていきます。

 しかし、復讐の習慣は久しく人々の心にしみついており、すぐに簡単に禁止することはできず、再三再四戒めたが、依然として根絶することはできなかった。桓譚だけではなく、以後の王朝でも復讐に対して詔書を発布し、重ねて禁止とした。曹操、魏文帝、北魏世祖、梁武帝らが、みな復讐の禁止を詔している。魏律では、復讐の処罰を重くして族人まで罰する。北魏の制度が最も厳しく、復讐者の宗族までを罰するだけではなく、近隣の相助した者も同罪とする。北周時代の法律も、復讐者を死刑に処す。

  以下、進んで唐代以後の「復讐」に関する法律を述べます。

 唐宋の以後の法律でも、一貫して復讐は禁止している。唐律には復讐を認める規定がなく、共謀罪、故意に殺害した罪などがある。宋律も同じである。しかし、同時に一つの規定が付されており、子孫が復讐したものは、役人の上奏によって勅裁することが認められていた。これは法律としては復讐の権利を認めていないけれども、特殊な状況を考慮し、礼法に気を配って柔軟な方法を備えたものである。

 元律には復讐の規定があり、父が誰かに殺され、子が復讐した場合、無罪になり責任が問われないというだけではなく、父を殺した家は銀五十両を葬式の費用として出さなければならない。

 明清の律は元律に少々手を加えたものだが、祖父母・父母が誰かに殺されたときに、子孫が悲しみから突発的に仇を殺した場合には無罪になり得るが、事後にしばらくしてから殺した場合、この規定は適用されず、杖六十に処される。

 注釈を省略してしまってたので分かりにくいですが、一つ一つ実例に基づきながら、要領よく整理されていることは伝わるかと思います。

 次回、まとめの段落に入ります。

→次回はこちら

(棋客)

瞿同祖『中国法律与中国社会』の紹介

 ここ数日、瞿同祖『中国法律与中国社会』(中華書局、1981)を眺めています。先秦期から清代、民国にかけての、中国における法律・礼制の特徴と変遷を、膨大な実例を根拠にしながら明晰に整理したものです。

 もともと、新田元規氏の「中国礼法の身分的性格について--瞿同祖『中国法律与中国社会』を手がかりに」(『中国哲学研究』24)を読んで本書の存在を知りました。非常によく整理されていて、中国に限らず広く法制史・礼制史を専門にする方に推薦できる書籍だと思います。

 

 今回は、家族に関係する法律を整理した第一章のうち、第四節「親族復讐」の項(p.72~)を、翻訳して一部お示しします。ここは、中国古代の「復讐」に関する制度を整理する節です。

 冒頭から順番に翻訳します。

 復讐という観念とその習慣は、古代社会・原始社会においては極めて普遍的なものである。誰かに傷害を受けた人は、その仇敵を探し出して、同様の傷害を与えても構わない。社会的にその人の報復の権利は承認されているのであって、仮にその人が自分で仇を討つことができなかったとしても、その仇敵に生命の危険があることは変わらない。というのも、その人の家族や族人にも等しくその人の敵を討つ義務があるのであって、しかもただ族人の兄弟姉妹が相互に助け合って、共同で事に当たるというだけではなく、一人の個人に対する傷害が一族の全員に対する傷害と同様に考えられるため、個人の仇敵は一族全員の仇敵と同一視される。よって、これは一種の連帯責任にまで発展し、一族全体の力で報復に向かうことになる。特に、族人が誰かに殺害された場合、または傷が重くそのまま死に至った場合、その報復の責任は全て死者の族人が背負うこととなるが、これは他者には任せられない責任であって、道義として辞退することの許されないものである。復讐は、一種の神聖な義務であるとも言うことができる。

 ここの注釈で、歴史上はギリシャ人、ヘブライ人、アラブ人、インド人が復讐を認めており、『モーセ五書』『クルアーン』にも記載があること、また他の例が色々と挙げられています。また、復讐が神聖な義務とされた例として、復讐の記念品を保存する文化があること、または復讐を果たせなかった人が罰を受ける社会があること、などを述べています。

 次の段落で、復讐の対象が、加害者一人だけではなくその一族に向かうこと、それがしばしば一族同士の大規模な戦闘に発展することを述べます。下は、その更に次の段落です。

 しかし、ある社会では、復讐の対象はこのように曖昧で範囲の広いものではなく、「歯には歯を」の方法で行われることがある。誰かが私の兄弟を殺した場合、私はその人の兄弟を殺し、誰かが私に父親を失う孤独を与えた場合、私もその人に同様の孤独を味わわせようとする方法で、その目的は仇敵に同じ痛苦と損失を与えることにあり、仇敵本人はかえって傷を負わない。これは『孟子』の「殺人之父、人亦殺其父、殺人之兄、人亦殺其兄」と同じ状況である。

 またある社会では、復讐の対象は極めて厳格で、仇敵本人だけが対象となり、復讐しようとする人は仇敵と巡り合う時まで我慢強く復讐の機会を待つ。アメリカ大陸のインディアンのCommanche人はこのようであるし、中国の復讐の観念もこのようである。よって、中国で報復を避けるためには、ただ仇敵本人が逃げることさえすれば、流血の惨劇は発生しないということになり、彼の家族や族人にその影響は波及し得ない。

 また多くの社会では、直接の報復を原則とするが、本人を探し出せなかった場合、止むを得ず仇敵の最近親者を身代わりとする。

 こういった、犯罪者と無罪者を区別する概念について、Steinmetzの研究によれば、目標のない復讐は、目標があり範囲を弁別する復讐に比べて、原始的なものとされる。彼の考えでは、人類の知力が発達すると、悪事を防ぐための最良の方法は悪事を働いた者本人に対して罰を与えることであると、人々が徐々に悟るようになる。ここにおいて、復讐は第一期から第二期に到達する。・・・ 

 ここまで、世界の歴史上の「復讐」という概念が、過去の研究の中でどのように分類されてきたか、どのような種類があるかということが示されています。

 そしてここから、中国における「復讐」の特徴を具体的に述べるわけです。その導入部分を以下に示しておきます。

 注意を要するのは、他の社会においては復讐の責任を負う人(復讐を行う人)は親族の外にないが、中国においては親族に限らないという点であり、これは中国の復讐の習慣における特徴の一つである。中国の社会関係は五倫によって構成されているため、復讐の責任も五倫を範囲とするから、友人もその中に含まれる。後漢童子張には父叔の仇があったが未だ果たさず、病で死ぬ間際に、復讐を成し得なかったことを泣きわめき、幼いころからの友人の郅惲はその願いを知り、仇を取ってその首を示すと、子張は絶したという記録がある。友人が仇を取るというのは、座視できないことである。

 同時に我々が注意すべきなのは、中国人の社会関係に対する見方が、親疎の等級をとかく問題にするということで、よって報復の責任も親疎によって軽重の相違がある。五倫のなかでは父親が最も親であり最も尊いので、その責任も最も重い。父の仇ということになると、不倶戴天の敵であり、寢苫枕塊し、骨を折って自ら誓い、長い間策を練って、一心に復讐を思い、その他のことは全てをなげうたねばならず、この時は官仕えをしてはならない。兄弟の仇、従兄の仇、そして友人の仇に至るまで、関係が疎になるにつれて、復讐の軽重も異なっており、層次がある。

  ここから、『周礼』、戦国時代、漢代・・・と、「復讐」の具体例が紹介されます。また次回に。

→次回はこちら

(棋客)

李弘喆「世本探源―『世本』受容史研究序説」

 『史林』第101巻、第5号(2018年9月)掲載の李弘喆「世本探源―『世本』受容史研究序説」を読みましたので、簡単に内容をご紹介します。

  

 『世本』とは、上古から春秋時代にかけての王や諸侯の系譜、その周辺情報を記した本で、古くはよく資料として用いられた本であったようです。有名どころでは、司馬遷が『史記』を作る際に使っています。しかし、『世本』はその後散佚してしまい、今となっては完全な形で読むことはできません。

 一般に、ある本が消滅してしまった場合、「輯佚」という作業によってある程度復元できることがあります。「輯佚」とは、今も存在する他の本から、消えてしまったある本の引用を探し出して、集めて整理して原型を復元する作業のことです。

 『世本』の場合、『世本』そのものは今は失われた本ですが、『史記』や『漢書』の注釈や『五経正義』に引用される形で部分的に文章が存していて、これを集めるとある程度復元ができる、というわけです。こういう方法で復元された本を「輯本」と呼びます。

 こういった「輯佚」の試みは、特に清代以降に積極的に行われ、現代も続けられています。特に近年はデータベースの充実から、より綿密な輯佚が可能になっています。

 

 さて、この論文は、こういった輯佚作業によって復元された資料を元手に研究を行うことの危険性を冒頭で論じています。

 これら現代の研究の最大の課題は、輯本を『世本』原本の断片とみなして進められた点にある。そもそも『世本』輯本は、清朝考証学者が、伝世文献において『世本』の引用であると明示された箇所を集め、内容によって各篇に分類したものであるに過ぎない。実のところ、個々の佚文は長期間にわたって複数の引用者が選択したものであり、原文の表現が正確に保存されているとは限らない。『世本』輯本は『世本』原文そのものではなく、その「使用痕」に過ぎない。原本の断片として均質に扱いうるものではなく、『世本』に対する複数の引用者の認識が蓄積されたものに他ならない。(p.40)

 「『世本』輯本は『世本』原文そのものではなく、その「使用痕」に過ぎない」というのが眼目。輯佚作業によって集められた資料は、それぞれが違うレベルのものであって、それを一覧にまとめて均質に論じることには常に危険がつきまとうわけです。

 

 では、本論文ではどのようなアプローチを採るのか。

 「使用痕」のみに頼って現物の復元は到底できないが、その「使用行為」自体を対象として研究を進めていくことは可能である。このことを手がかりにまずは、『世本』が散佚するまでにいかに読まれたか、書物としていかに認識されていたかを検討して、最終的にその書物としての学術史的位置づけを明らかにしたい。(p.41)

 つまり、「使用痕に過ぎない」ことを逆手にとって、その「使用痕」を辿る研究を志向するわけです。この研究は、『世本』の引用のされ方の検討を通して、その文献における『世本』の使われ方、立ち位置を明らかにすることができます、言い換えれば、『世本』の受容史、学術史を明らかにするところに力点を置かれるわけです。

 

 以下、実際にこの方法から研究が進められるわけですが、その辺りは実際の論文をご確認ください。

 続篇に、「世本錐指 : 『世本』宋忠注をめぐって」(『東洋史研究』78(3), 409-441, 2019-12)があります。そのまま継続して、『世本』並びにその注釈の各時代における受容の在り方の研究が進められるようですので、楽しみにしたいと思います。

(棋客)

多音字の読み分け「惡」―『経典釈文』から『新華字典』まで

 日頃「経書」を読む者にとって、『経典釈文』における「多音字の読み分け」というのは、否が応にも意識させられる話です。

 『釈文』とは、六朝時代、陳末隋初の頃に作られた、経書の文字に発音を附した本です。そして、意味によって発音が異なる漢字には、きちんと発音も区別して附されているのです。(この辺りの話は、『文言基礎』様であちこちにまとめられていますので、参考にしてください。→多音字 の検索結果 - 文言基礎

 となると、経書を読んでいるうちに、あちこちで同じ読み分けを何度も見ることもあり、自然と慣れてくる字もあります。今回は、その読み分けの例を、『釈文』『広韻』『辞源』新華字典で見比べてみようと思います。

 これはそのまま、経書を読む時にいつも調べていること、そういった授業に出るときに準備していること、を紹介することでもあります。

 

No.1「惡」

 「悪」の字は、『釈文』の中で、三種類の読み分けがあるようです。

 この実例は大量にあるのですが、まずは、文脈から意味の取りやすいものを一例ずつ挙げておきましょう。(但し、音の表記の仕方には、揺れがある場合もあります。)

 

○『經典釈文』

a.『左伝』定公五年伝「王曰、善使復其所、吾以志前。」

(杜注)惡、過也。(釈文)音注なし。

 ※釈文に音注がない場合、または「如字」(字の如し)等と記される場合は、基本的には「その字の最も普通の読み方で読め」という指示です。

 

b.『左伝』襄公二十六年伝「合左師畏而之。」

 (釈文)「惡」、烏路反。

 

c.『荘子』徳充符「聖人不謀用知、不斵用膠。無喪惡用德、不貨用商。」

 (釈文)「惡」、音烏、下同。

 

 上の三例の場合は文脈から意味が取りやすいので、『釈文』の音注が無くても読めるかもしれませんが、実際には意味が取りにくい例も多いですから、やはり『釈文』は有用です。また、仮に当たり前の読み方であったとしても、『釈文』に残されているのはかなり古い経書の解釈ですから、それ自体が貴重で価値のあるものです。

 

 次に、『広韻』という本を見てみましょう。『広韻』は漢字を韻によって整列して、それぞれの意味を附したものです。『広韻』自体は宋代の成立ですが、もともとは隋代の陸法言の『切韻』という本が基礎になっています。よって、『切韻』と『釋文』は、どちらも同じ音声体系(「中古音」と呼ばれるもの)の下に作られた本で、基本的には相互にかみ合うように出来ているわけです。

 以下、先程の音の読み分けに合うように、a、b、cに分けて示します。

 

○『広韻』

a.入聲19「鐸」烏各切

 「惡」、不善也。『説文』曰「過也」。

 

b.去聲11「暮」烏路切

 「惡」、憎惡也。

 

c.上平11「模」哀都切

 「惡」、安也。

 

 bは「烏路切」で共通しているので良いとして、cはどうでしょうか? ここで「烏」の方を調べると、これが上平11「模」哀都切に属していることが分かりますので、ここに当てはまることが分かります。

 

 ここまで、一旦整理しておきましょう。

 a「悪」は、『左伝』杜預注では「過」と訓じられていました。『広韻』では「善」の対義語とした上で、『説文』の「惡、過也」という訓詁を引きます。この条は『釈文』には記載が無いので、これが最も普通の読みと考えられていたのでしょう。

 b「悪」は、『広韻』によれば「憎惡」の意。つまり、「畏れて之を惡(にく)む」ということになります。

 c「悪」は、『広韻』によれば「安」の意。これは疑問詞の「安」を示しています。よって「謀らざれば惡(いずく)んぞ知を用う」、疑問・反語を作る虚詞ということになります。この場合、『釈文』の「惡、音烏」は、音が「烏」であることを示すと同時に、意味も「(疑問詞の)烏」であることを示しているでしょう。

 

 さて、これで解決したわけですが、『釈文』も『広韻』も訓詁が簡潔過ぎて、よく意味が取れない場合、文意にぴったり来ない場合もあり、もう少し噛み砕いた説明が欲しいことがあります。また、熟語の例を確認したい場合や、現代中国語での発音を確認したい時もあります。そういった時には、現代の辞書を使うのが便利です。

 オンライン上の辞書、「漢典」「捜韻」なども有用ですが、折角ですので普段使っている『辞源』新華字典の記述を使ってみます。なお、『辞源』にはそれぞれの意味の下に用例が載っていますが、ここでは省略しています。

 

 a.『辞源』e4:烏各切、入、鐸韻、影。
 ①罪過。與「善」相對。②凶暴、凶檢。③醜、劣。與「美」「好」相對。④壞人。⑤疾病。⑥汚穢。⑦副詞。甚、很。

  新華字典』e4
  ①恶劣,不好。②凶狼。③犯罪的事,极怀的行为,跟善相对。

 

b.『辞源』wu4:烏路切、去、暮韻、影。
 ⑧憎恨、討厭。與「好(hao4)」相對。⑨誹謗、詆毀。

  新華字典』wu4
  讨厌,憎恨。

 

c.『辞源』wu1:哀都切、平、模韻、影。
 ⑩疑問代詞。怎、如何、何。⑪嘆詞。

 新華字典』wu1
  ①古同乌。②文言叹词,表示惊讶。

 

d.『辞源』hu1(『新華字典』なし。
 ⑫見「惡池」。

 

e.『新華字典』e3(『辞源』なし。
 恶心

 

 dは地名「惡池」、eは熟語「恶心」でのみ使われる発音ということですね。

 現代の辞書は、もちろん『釈文』や『広韻』以外にもたくさんの情報源があるわけですから、他の発音の例も載せられていることがあります。これらの音がどこから来たのかというのも調べてみると面白そうですね。

 

 さて、至極当たり前のことですが、『辞源』『新華字典』ともに、『釈文』と『広韻』の例にぴたりと当てはまっていることが、これで確認できましたね。

 

 整理できたところで、試しに実例を見てみましょう。

『毛詩』大雅・文王之什・緜・鄭箋

 故不絶去其恚惡惡人之心。

 (釈文)惡惡、上烏路反、下如字。

  ここは、「惡惡」と二字続いているところに対して、『釈文』がそれぞれの音に違う読み方を与えています。

 一つ目は「烏路反」とありますから、「恨む・嫌う」の方向で読んでいることになります。直前に出てくる「恚」も同じような意味です。

 二つ目は「如字」とありますから、「悪い・罪」の方向で読んでいることが分かります。

 ということで、これを合わせると「悪い人を嫌う心を取り除かない」といった意味になりますね。

 

 『釈文』を使ってどのように「経書」を読んでいるのか、少しイメージが湧いたでしょうか?

(棋客)