日頃「経書」を読む者にとって、『経典釈文』における「多音字の読み分け」というのは、否が応にも意識させられる話です。
『釈文』とは、六朝時代、陳末隋初の頃に作られた、経書の文字に発音を附した本です。そして、意味によって発音が異なる漢字には、きちんと発音も区別して附されているのです。(この辺りの話は、『文言基礎』様であちこちにまとめられていますので、参考にしてください。→多音字 の検索結果 - 文言基礎)
となると、経書を読んでいるうちに、あちこちで同じ読み分けを何度も見ることもあり、自然と慣れてくる字もあります。今回は、その読み分けの例を、『釈文』、『広韻』、『辞源』、『新華字典』で見比べてみようと思います。
これはそのまま、経書を読む時にいつも調べていること、そういった授業に出るときに準備していること、を紹介することでもあります。
No.1「惡」
「悪」の字は、『釈文』の中で、三種類の読み分けがあるようです。
この実例は大量にあるのですが、まずは、文脈から意味の取りやすいものを一例ずつ挙げておきましょう。(但し、音の表記の仕方には、揺れがある場合もあります。)
○『經典釈文』
a.『左伝』定公五年伝「王曰、善使復其所、吾以志前惡。」
(杜注)惡、過也。(釈文)音注なし。
※釈文に音注がない場合、または「如字」(字の如し)等と記される場合は、基本的には「その字の最も普通の読み方で読め」という指示です。
b.『左伝』襄公二十六年伝「合左師畏而惡之。」
(釈文)「惡」、烏路反。
c.『荘子』徳充符「聖人不謀惡用知、不斵惡用膠。無喪惡用德、不貨惡用商。」
(釈文)「惡」、音烏、下同。
上の三例の場合は文脈から意味が取りやすいので、『釈文』の音注が無くても読めるかもしれませんが、実際には意味が取りにくい例も多いですから、やはり『釈文』は有用です。また、仮に当たり前の読み方であったとしても、『釈文』に残されているのはかなり古い経書の解釈ですから、それ自体が貴重で価値のあるものです。
次に、『広韻』という本を見てみましょう。『広韻』は漢字を韻によって整列して、それぞれの意味を附したものです。『広韻』自体は宋代の成立ですが、もともとは隋代の陸法言の『切韻』という本が基礎になっています。よって、『切韻』と『釋文』は、どちらも同じ音声体系(「中古音」と呼ばれるもの)の下に作られた本で、基本的には相互にかみ合うように出来ているわけです。
以下、先程の音の読み分けに合うように、a、b、cに分けて示します。
○『広韻』
a.入聲19「鐸」烏各切
「惡」、不善也。『説文』曰「過也」。
b.去聲11「暮」烏路切
「惡」、憎惡也。
c.上平11「模」哀都切
「惡」、安也。
bは「烏路切」で共通しているので良いとして、cはどうでしょうか? ここで「烏」の方を調べると、これが上平11「模」哀都切に属していることが分かりますので、ここに当てはまることが分かります。
ここまで、一旦整理しておきましょう。
a「悪」は、『左伝』杜預注では「過」と訓じられていました。『広韻』では「善」の対義語とした上で、『説文』の「惡、過也」という訓詁を引きます。この条は『釈文』には記載が無いので、これが最も普通の読みと考えられていたのでしょう。
b「悪」は、『広韻』によれば「憎惡」の意。つまり、「畏れて之を惡(にく)む」ということになります。
c「悪」は、『広韻』によれば「安」の意。これは疑問詞の「安」を示しています。よって「謀らざれば惡(いずく)んぞ知を用う」、疑問・反語を作る虚詞ということになります。この場合、『釈文』の「惡、音烏」は、音が「烏」であることを示すと同時に、意味も「(疑問詞の)烏」であることを示しているでしょう。
さて、これで解決したわけですが、『釈文』も『広韻』も訓詁が簡潔過ぎて、よく意味が取れない場合、文意にぴったり来ない場合もあり、もう少し噛み砕いた説明が欲しいことがあります。また、熟語の例を確認したい場合や、現代中国語での発音を確認したい時もあります。そういった時には、現代の辞書を使うのが便利です。
オンライン上の辞書、「漢典」や「捜韻」なども有用ですが、折角ですので普段使っている『辞源』、『新華字典』の記述を使ってみます。なお、『辞源』にはそれぞれの意味の下に用例が載っていますが、ここでは省略しています。
a.『辞源』e4:烏各切、入、鐸韻、影。
①罪過。與「善」相對。②凶暴、凶檢。③醜、劣。與「美」「好」相對。④壞人。⑤疾病。⑥汚穢。⑦副詞。甚、很。
『新華字典』e4
①恶劣,不好。②凶狼。③犯罪的事,极怀的行为,跟善相对。
b.『辞源』wu4:烏路切、去、暮韻、影。
⑧憎恨、討厭。與「好(hao4)」相對。⑨誹謗、詆毀。
『新華字典』wu4
讨厌,憎恨。
c.『辞源』wu1:哀都切、平、模韻、影。
⑩疑問代詞。怎、如何、何。⑪嘆詞。
『新華字典』wu1
①古同乌。②文言叹词,表示惊讶。
d.『辞源』hu1(『新華字典』なし。)
⑫見「惡池」。
e.『新華字典』e3(『辞源』なし。)
恶心
dは地名「惡池」、eは熟語「恶心」でのみ使われる発音ということですね。
現代の辞書は、もちろん『釈文』や『広韻』以外にもたくさんの情報源があるわけですから、他の発音の例も載せられていることがあります。これらの音がどこから来たのかというのも調べてみると面白そうですね。
さて、至極当たり前のことですが、『辞源』『新華字典』ともに、『釈文』と『広韻』の例にぴたりと当てはまっていることが、これで確認できましたね。
整理できたところで、試しに実例を見てみましょう。
『毛詩』大雅・文王之什・緜・鄭箋
故不絶去其恚惡惡人之心。
(釈文)惡惡、上烏路反、下如字。
ここは、「惡惡」と二字続いているところに対して、『釈文』がそれぞれの音に違う読み方を与えています。
一つ目は「烏路反」とありますから、「恨む・嫌う」の方向で読んでいることになります。直前に出てくる「恚」も同じような意味です。
二つ目は「如字」とありますから、「悪い・罪」の方向で読んでいることが分かります。
ということで、これを合わせると「悪い人を嫌う心を取り除かない」といった意味になりますね。
『釈文』を使ってどのように「経書」を読んでいるのか、少しイメージが湧いたでしょうか?
(棋客)