達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

大学院生が好きな小説・五選

 気分転換に、好きな小説を語るのもいいのではないかと思い立ちました。「大学院生が好きな」とかいうとんでもなく大風呂敷を広げたタイトルがついていますが、完全に私の独断と偏見によります。

 基準としては、物語としての豊饒さ、エンターテインメント性に優れていると同時に、研究・歴史・文学といった学問的な営為、そして「物語を語るとはどういうことだろう」ということを考えさせてくれるような作品をピックアップしています。

 以下、さも小説を読みまくっているかのような口調で解説していますが、実は全くの素人です!

 

グレアム・スウィフト 『ウォーターランド』(真野泰訳)

 ある歴史教師が、生徒に対する最終講義として、その街と土地の歴史、一族の歴史、そして彼自身の歴史を語る物語。地史であり、自然科学史であり、また殺人ミステリーでもあります。彼は歴史を語るうちに、歴史とは何か、なぜ歴史を語るのか、どうして物語が紡がれるのか、そんな考えを深めていきます。

 というわけで、私は私の科目を引き受け、背に負った。というわけで、私は歴史を―手あかのついた広い世界の歴史ばかりでなく、わがフェンズの祖先たちの歴史も、というよりはこちらをとりわけ熱心に、調べはじめた。というわけで、私は歴史に〈説明〉を求めるようになった。しかし、ひたむきに探究するうちに、最初に抱えていたよりもかえって多くの、神秘や怪奇、不思議、驚愕の種を発見することとなり、四十年ののちには―自分が選んだ学問分野の有用であること、その教育に資するところ大であることを信じて疑わぬにかかわらず―歴史は一つのお話であるという結論に達することとなる。そして、私がずっと手に入れようとしていたのは、歴史が最後の最後に差しだす金塊のごときものではなく、〈歴史〉そのもの、つまり〈偉大なる物語〉、空虚を満たす埋草、暗闇に対する恐怖心を追い払ってくれるもの、だったのではないだろうか?(p.93-94)

 接続詞の多用が心地よいリズムを生み出しています。彼の歴史の授業は、一方的な語り掛けではなく、プレイスというクラスの優等生にして問題児の野次や問いかけを通して、その相互の関係の中でより充実し、ドラマチックな展開を迎えます。

 彼の最終講義は一風変わったもので、以下のように語りかけが始めります。彼らが住む「フェンズ」(イングランド東部沿岸の平野)は、かつては水の広がっていた土地(ウォーターランド)であり、これを干拓することからその歴史が始まりました。彼は干拓にかかる困難、利益と弊害、そして干拓地であることと今日のフェンズの関係などを述べ、こうまとめます。

 だから歴史に出てくる革命とか転換期だとか大変化、そんなものは忘れてしまってほしい。代わりに考えてほしいのは、干拓という、多大の時間と労力を要するプロセスのこと。沈泥作用の人間版ともいうべき、いつ果てるともない、あいまいなプロセスのことである。(p.22)

 全てを飲み込む雄大な自然と、そこで働くちっぽけな人間一人一人の動きが語られます。歴史とは誰のための歴史で、誰を語ることが歴史なのでしょうか。またある授業では、代々の人間の研究によって明かされた自然の謎(ウナギの生殖について)が説明されます。自然科学の探求であり、また未知なるものを探検する人間の歴史でもあります。

 ここで紡がれた豊饒な物語は、到底語り切れません。ぜひ、手に取って読んでみて下さい。同じ作者の『マザリング・サンデー』もおすすめです。

 

劉慈欣『三体』(立原透耶監修、大森望・光吉さくら・ワンチャイ訳)

 言わずと知れた、今まさに話題沸騰中の中国SF。Amazonの商品の宣伝コメントには、ジェームズ・キャメロンバラク・オバママーク・ザッカーバーグだの錚々たる顔ぶれが並んでいます。

 もちろん、日本でも大ヒット中です。この作品が日本でも売れたということに、不思議な嬉しさを覚えます。私は中国語版・日本語版を両方読みましたが、翻訳版も非常によい出来栄えであると思います。

「まもなくわかる、すべての人間が知ることになる。汪教授、これまでに、人生が一変するような経験をしたことは?その出来事からあと、世界がそれまでとは全く違う場所になってしまうような経験」

「いいえ」

「では、先生のこれまでの人生は幸運だったわけだ。世界には予測不可能な要素があふれているのに、一度も危機に直面しなかったのだから」

(略)「たいていの人はそうじゃないでしょうか」

「では、たいていの人の人生も幸運だった」

「でも…何世代にもわたって、人間はそんなふうに生きてきた」

「みんな、幸運だった」

(略)「今日の私はどうも頭がまわらないらしい。つまりそれは……」

「そう、人類の歴史全体が幸運だった。石器時代から現在まで、本物の危機は一度も訪れなかった。われわれは運がよかった。しかし、幸運にはいつか終わりが来る。はっきり言えば、もう終わってしまったのです。われわれは、覚悟しなければならない」(p.71-72)

 終始ドラマチックで、特に「三体」のゲームをめぐる展開は秀逸というほかありません。

 さて、的外れなことを言っているかもしれませんが、翻訳小説はSFの強みがよく出るように感じます。SFは設定とストーリー展開がまず重要ですから、翻訳によってその言語独特の文学的表現・含蓄とやらが(ある程度)失われても、その本来の魅力が損なわれにくいと思うのです。しかも、劉慈欣氏の作品はもともとそういう要素が薄いですから、逆に言語を越えて広く受け入れられやすいのではないでしょうか。

 …って、「SFは文学ではない」とかいう筒井康隆の『大いなる助走』みたいな話になってきましたが、そういうことが言いたいわけではありません。

 

円城塔『文字渦』

 現代日本のSFから、いやSFなのかよく分かりませんが、そういうジャンル付けを拒否するような円城塔の作品も、色々な方に味わってほしいものです。これについては以前記事を書きました。

chutetsu.hateblo.jp

 円城塔の作品も、英訳は当然として、中国語訳もちらほら出始めています。もっとも、ルビや漢字を使って遊んでいる作品などは、到底翻訳できない気もしますが…。

 

ボルヘス『伝奇集』(鼓直訳)

 「大学院生が~」なんてタイトルをつけてしまったせいで、徐々に無難に「名著」と呼ばれるものを紹介しとこうか、という気になってくるのは困りものです。これも引用付きで紹介したいのですが、引っ越しの際に友人邸に預けたままになってしまいました。

 ボルヘスは序文で、長編になりそうなアイデアから実際に長編を書くのは面倒であるから、そういう長編の本が既に存在することにして、その本に対するブックレビューを書いて作品とすればよいので、といったことを書いています。(そして、実際にそうして書かれた短編が収録されています。)

 人によって印象に残る作品は異なるでしょうが、私はやっぱり「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」が大好きですね。何度読み返したか分かりません。どういう内容なのか、少し紹介してみます。

 

 では、ちょっと思考実験をしてみてください。ここにある「文章」があって、その意味内容が何なのか考えているとしましょう。「文章」には必ず「書き手」がいますね。この「文章」を通して、「書き手」が「読み手」に伝えたいこと(その意味内容)を伝達する、という状況です。

 ということは、まずはこの「文章」が変われば、当然その「意味内容」は変わってきます。では「文章」が同じなら「意味内容」が不変というと、そう単純ではありません。「文章」が同じでも、「読み手」が変わった場合、その読み取り方は究極的には人それぞれですから、「意味内容」は変化します。(同じ『論語』の文章であっても、漢代の鄭玄、宋代の朱熹、現代の日本人、によって読み取られた内容は多種多様ですね。)

 では、最後の実験です。仮に「文章」と「読み手」は同じまま、「書き手」だけが変化した場合、どうなるでしょうか。というより、そもそも「書き手」だけが変化するとは、どういう状況でしょうか。まずボルヘスは、「文章」と「読み手」は同じまま、「書き手」だけが変わる、というシチュエーションを上手く作り上げます。そして、「書き手」が変わった場合、その読解が変化し、意味内容が変化することを見事に示しています。

 この現象自体は、あちこちで見受けられるものです。同じ発言でも、AさんがするのとBさんがするのとでは何か違う、というのは皆さんも感じたことがあるでしょう。中国古典で言えば、孔子を「誇り高き理想主義者」として見るか、「虚勢を張った悲劇の田舎人」として見るかによって、『論語』の読解が変わってくる現象なんかを思い浮かべればいいでしょうか。

 ボルヘスの「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」は、この現象を鮮やかに描写し、一丁上がり!と人を感嘆せしめる作品です。

 

 ちなみに中国の教科書には「八岐の園」が載っているそうです。これは物語の主人公が中国人だからということですが、これを教育現場でどのように読んでいるのか、全く想像がつきません。

 より読みやすいものから入りたい方には、ボルヘスの晩年の語りを記録した『七つの夜』 がおススメです。そういえば、円城塔の小説でも相当にボルヘスが意識されていますから、先にボルヘスを読んだ方がよいかもしれませんね。

 

村上龍『五分後の世界』

 日本があの戦争で降伏せず、戦い続けている世界線、そのパラレルワールドに飛ばされた主人公の格闘と羨望を描く作品。色物に見られそうなテーマを、圧倒的なリアリティと社会観から描いて読者を黙らせることに長けた作者の代表作、と言えるのではないでしょうか。

 下は、このパラレルワールドで使われている歴史の教科書の一節です。強烈な刃が隠されているのが分かるでしょう。

 自分の生命を大切にしない人間が、他の人間の生命を大切に思うことはできません。それでは、なぜ当時の日本人は、生命を大切にしなかったのでしょう。また、なぜそれほどまでに「無知」だったのでしょう。 

 それは、それまで本当の民族的な危機というものを体験したことがなかったからです。まわりを海で守られていたために、他の民族と戦うことがなかったので、他の民族や国を理解することがいかに大切か学ぶことができませんでした。そして、生命というものはそれを積極的にそんちょうしなければ守れないものだということも学ぶことはできませんでした。

 もし、本土決戦を行わずに、沖縄をぎせいにしただけで、大日本帝国が降伏していたら、日本人は「無知」のままで、生命をそんちょうできないまま、何も学べなかったかもしれません。 

 このパラレルワールドを理想化するでもなく、また貶めるでもなく、最前線から首脳部まで、上から下までを描き尽くした作品です。同時に、終始スリリングなアクションものでもあり、人々の熱狂と狂乱を描き出す筆致も見事なものです。

 「最後の一文が衝撃」なんていう使い古された宣伝文句に、最もふさわしい作品なのではないでしょうか? ほかに、『半島を出よ』も大好きですが、とても長いのでこちらをおすすめにしました。

 

 みなさん、師走なんて呼ばれる忙しい時期ですが、年末年始に時間を取って、読書に勤しむのもよいのではないでしょうか(^^)。

(棋客)