達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

井上進「復社の學」―論文読書会vol.1

【論文タイトル】 

井上進「復社の學」(『東洋史研究』44-2、京都大學、1989、後に『明清學術變遷史』第八章に収録)

【先行研究】


謝國禎『明清之際党社運動考』(商務印書館1934)
小野和子「明末の結社に関する一考察」(『史林』45-2、3 1962)
宮崎市定「張溥とその時代」(『東洋史研究』33-3 1974)
容肇祖「明代思想史」(開明書店 1941)

 

【要旨】


 復社は、明末に江南の生員が主体となって結成された在野の結社であり、一般に「政治運動」「社会運動」を目的としていたとされる。しかし、万斯同・朱彝尊の父や顧炎武・黄宗羲が復社成員であったことから、明清の學術變遷を考える上で、復社を無視することはできない。つまり、復社には學術運動の側面もあった。自らの學派を確立しないまま壞滅してしまった復社ではあるが、そこには明末學術が持っていた可能性、そして近代思唯の繼承と斷絶を考えるための恰好の手がかりがある。
 復社の指導者である張溥は、俗學である八股に対して經學を本質とする古學を復興し、有用の學をなすことで、衰亂した明末の現状を挽回しようとした。張溥の言う古學は、朱子注に依らず、自ら聖人の道を把握しようとするものであり、古注はそのために担ぎ出されたものに過ぎなかった。また、張溥の言う有用の學は、經的價値観から脱却しつつあるものだった。張溥の學問は、德と學の分離、諸學の獨立化、つまり經學が全てを貫くという考えの否定が含まれていた。
 陳子龍は、張溥をより推し進めた位置にいた。陳子龍にとって學とは、有用たるための知識であり、事の追求が第一課題であった。經書は、經世の理念を完全に表しているが、現存する經書を完全に信頼することはできない。陳子龍は、具体的經世は事に即して、史の研究から考えなければならないとした。更に、有用の点から、荘子墨子などの諸子へ贊辭を送りさえもした。陳子龍は儒学の枠を超える可能性を持っていた。
 「六經は服鄭を尊び百行は程朱に法る」とは、ある意味で漢學一般に適合する語であろう。現實を支配する規範とその規範の根源である經の意、この兩者の間に分裂がなければ漢學は成立しえなかった。陳子龍の經學はまだ「臆斷」の段階に在ったが、事に即した經の研究が進展していき、やがてその「臆斷」が精密な考証となる可能性を秘めていた。
 復社は結社として一定の組織性を持つ運動であり、その成員に共通する精神的紐帯には、「任侠」「異人」的傾向があった。また、水平関係で結ばれ、下から教を主持しようとする甚だ危険な運動であった。
 こうした点で「心學の横溢」である王學左派と復社は同じ方向性だったのではないか。明末の可能性は卓吾の後も生き續け、復社に至って實を結ぶかに見えたのである。
 復社の士の中には忠臣烈士や遺民が少なくない。しかし、名教を敵視しなかった彼らの中には、清朝に出仕するものも多かった。復社の學は清の漢學の準備をしつつ無残な敗北のうちにひとまず終焉したのである。

 

【議論】


・第一段「近代思唯の繼承と斷絶を考える」→どういう意味か?→島田虔次氏説を踏襲しているのでそちらを参照
・第二段「張溥の學問は、德と學の分離、諸學の獨立化、つまり經學が全てを貫くという考えの否定が含まれていた。」→表現が曖昧では?→より詳細な記述が別の論文にあるので参考にすると良いと思う。「漢學の成立」第二節・郝敬の經學(『東方學報』第61册1989年)(『明清學術變遷史』第七章・第二節)
・復社の學と清朝考証學の連続する部分を考えると古注への注目だけではないか?→確かに諸子に注目した考証學者はいたがごく一部で、諸子の再評価は清末以降になる。
・「復社の學」は復社の自己認識ではなく、第三者の視点から復社の學の特徴をまとめると王學との類似点があるという話→學者の自己認識と學術史上での分類は必ずしも一致しないのかもしれない。

 

※「論文読書会」については「我々の活動について」を参照。

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