※論文読書会については「我々の活動について」を参照。今回は内容が難しく、誤解している箇所がありそう。
【論文タイトル】
吉川忠夫「孝と佛教」(麥谷邦夫『中国中世社会と宗教』同気社、2002)
【先行研究】
吉川忠夫「中國における排佛論の形成」(『六朝精神史研究』同朋社、1984)
吉川忠夫「六朝時代における『孝経』の受容」(同)
【要約】
六朝期に入って仏教は徐々に中国社会に浸透し始めたが、それにともなって排仏論も強くなった。というのも、仏教の教えには中国人にとって基本的かつ重要な徳である「孝」と相容れない部分があったためである。それは、特に「沙門の剃髪」と「出家主義」の二点である。
まず筆者は、この二点に関する排仏論と仏教側の議論を描く。最初に取り上げられるのは牟子『理惑篇』と孫綽「喩道論」である。排仏論側は「剃髪は父母から受けた身体を傷つけており孝に反する」ことと「出家は妻子や財産を捨てるもので、祖先の祀りを行えなくなる」ことを重点的に批判し、これに対して仏教側が「剃髪や妻子を捨てるのは確かに孝に反するが、この孝は『孝の始め』であって、権道に過ぎない。その後、出家者として名を高めれば、父母を顕彰することになり、『孝の終り』を全うすることができる」と反論する。この議論が両論の基本線だが、時代とともに発展も見られる。例えば釈法琳『辯証論』では、「輪廻思想に従えば、衆生すべてがわが父であり母でもある」という発想や、中国の礼で見られる祖先祭祀と宝塔を作って仏を祀ることとを同等視する発想も見られる。しかし、却ってここにおいて両者の決定的な相違点が明らかになった。即ち、「祖先にもまさって仏を祀る」ことや、「衆生はみな父母であり、衆生全てに孝を及ぼさなければならない」ことは、家族関係に基礎を置かない無差別的な孝であり、伝統的な「孝」とは全く異なるものであることがはっきりしたのである。ここに結局両者が融合し得なかった理由がある。
上記の議論は、結局仏教側が自らの立場に引き込んだ上で論じているだけで、水掛け論に終始した。しかしその中で、中国の伝統的な「孝」を説く仏教経典を宣揚する動きも現れてきた。その種の経典である『盂蘭盆経』に疏を著した唐の宗密は、孝が儒仏二教を通しての根本であることを論じるとともに、両者の孝の実践のあり方の同異を整理しており、注目に値する。まず、実践の異なる点について整理すると、上述の頭髪・身体を護るか否かという点に加え、死の扱いについて、居喪異(棺桶と墓地を作って形を留める/火葬し念仏を唱える)、斎忌異(死者の生前のままの姿を想う/よりよい輪廻転生を願う)、終身異(四時の殺生/三節の放生)という違いを挙げる。実践の同じ点としては、両者が親の生前にも死後にも孝を尽くすこと、罪を犯した者への罰と善を積んだものへの福を想定することが挙げられている。
筆者は最後に、朱子による「仏教は親子関係を仮のものとしているため、親子関係を破壊する」という言説を取り上げる。しかし、仏教と関係を持たない禰衡が既に似た発言をしている事実があり、事はそう単純ではない。更に、以上で見てきた例からも分かるように、中国に伝来した仏教が「孝」を重視するようになっていたことも疑いない。筆者は、熱烈な口調で母への思いを語る上堂説法を引用し、結びとする。
【議論】
・筆者が一篇を通して「儒教」という語を使わないのは何故だろうか。余計な意味が付随してきてしまうからか。
・仏教経典に見られる「父母を悪しき道から救う」タイプの説話は、「孝」と言えるのか。広い意味での「孝」には入っていそうだが、「父母を三度諫言しても父母が従わなかったら、泣きながら従う」の印象で「孝」を捉えると少し違和感がある。そこも「孝」に含めたところに仏教経典の孝理解が出ているのかもしれない。