達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

影山輝國「皇侃と科段説―『論語義疏』を中心に―」―論文読書会vol.9

※論文読書会については、「我々の活動について」を参照。 

 

影山輝國「皇侃と科段説―『論語義疏』を中心に―」(『斯文』122, 2013, p.1~14)

【先行研究】

・喬秀岩『義疏学衰亡史論』(白峰社、2001)
 南北朝から隋唐にかけての義疏学(特に皇侃から劉炫・劉焯、正義に至る学術史)を、彼らの義疏そのものの読解から語り尽くした研究。断定は避けながらも、詳細な科段説は皇侃に始まるとする。

・野間文史「義疏学から五経正義へ―科段法の行方」(『東洋古典学研究』33集、2012)
 現存する6つの六朝義疏のうち、『論語義疏』『孝経述議』『禮記子本疏義』『周易疏論家義記』『孝経鄭注義疏』には科段法が見られるが、『公羊疏』にのみ見られないことを指摘。また、科段法の源流が仏家だけでなく儒家伝統文献にも求められるとする。

【要約】

・科段説とは(本論文による定義)
 経文をいくつかの「科段」に区切り、各科段の主旨を述べて、科段内容相互の関連性から、経文全体の総合的意味を提示するという解釈法。科段の分割を示す文と、各科段の主旨を述べた文とを合わせて「科文」という。

・『論語義疏』に見える科段説
 一章を数段に分ける場合と、一篇を数段に分ける場合とがある。喬秀岩『義疏学衰亡史論』では、『論語』二十篇の各篇が篇の順序の意義を説くことも科段説に含めている。しかし影山氏は、篇は皇侃以前から分割されており、順序の意義を説くことのみでは科段説と断言できないとする。

・科段説の由来(本論文の主要部)
 従来の説では、『論語義疏』の科段説は皇侃が仏教の影響を受けながら創始したものとされてきた。しかし影山氏は、皇侃自身が科段説に言及している学而篇の疏の読解から、皇侃は「苞咸・孔安国・周氏・馬融」の頃から『論語』に科段があったと考えていたと反論する。影山氏は幾つかの証拠を示しながら、疏に見える「中間」という語を、旧来の注釈者と同じく「前代」と解釈し、「科段を解く者が前代からいた」と読む。
 次に、『論語義疏』の科段説の創始者についての議論に移る。喬氏は詳細な科段説は皇侃に始まると述べるが、影山氏は『論語義疏』に皇侃以前の科段説の具体例が見えることから、皇侃が創始者とは言えないと反論する。皇侃は以前からあった科段説のうち、有用なものを取り入れて紹介しているところもあるようだ。
 後漢期の科段説の詳細は明らかではない。しかし、「章句の学」と関係を持つことは推測できる。例えば野間文史氏は後漢の馬融・荀爽、呉の姚信らによって経文の分断が行われていたことを指摘する(『周易正義』の記述)が、この例では、彼らが単なる章句の分断だったのか、章の主旨を説く科文を備えていたのかについてははっきりしない。とはいえ、章句の分断作業には、必ず各章句の意味の理解や関連性の考究が伴っていたはずであり、そう考えると章句の学と科段説はかなり近いものということになる。野間氏は「科段法は必ずしも仏教からの影響のみではないのである」と結論付けるが、影山氏もこれに賛同する。更に、仏教が中国に入って初めて「科段説」が唱えられたとするなら、それが逆に伝統的な中国の学問を受けて生まれた可能性も否定できない、と述べる。

【議論】

・科段法とは何か考えるとき、影山氏は「経文を区切ること」を重く見ており、喬氏は「各段の関係性を述べること」を重く見ているようだ。
・経文を区切ること、そしてそれぞれの意味と関連性を考えること、というそれ自体はごく一般的な文章の解読法と変わらないように思えるが、どこに特殊性があるのか。皇侃まで至ると、喬氏の本の紹介するようにかなり特殊な読解と言えるだろうが。
・「苞咸・孔安国・周氏・馬融の科段があった」という説の出所はどこか。皇侃以前に遡ることはできないか。