達而録

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大坊眞伸「『禮記子本疏義』と『禮記正義』との比較研究」―論文読書会vol.10

※「論文読書会」については「我々の活動について」を参照。

本論文はオンライン上で公開されています。

 

【論文タイトル】

大坊眞伸「『禮記子本疏義』と『禮記正義』との比較研究」(『大東文化大学漢学会誌』43号, p.79-110)

 

【先行研究(本論文の注より)】

・鈴木由次郎「禮記子本疏義殘巻考文」(1970,『中央大學文學部紀要』哲学科第十六)
 両者を對校し、①正義が疏義を襲用、②襲用の上補説を付加、③疏義を駁正、④意は同じだが文は異なる、の四つに概括。その異同を述べる。
・山本巖「禮記子本疏義考」(1987,『宇都宮大学教育学部紀要』第一部三七)
 『疏義』の大部分が皇侃の筆であること、『隋書』經籍志の著録する『禮記義疏』九十九巻であること、孔疏に某灼氏の説を含むこと、を論じる。
・喬秀岩『義疏学衰亡史論』(2001,白峰社)
 孔疏が皇疏を故意に採用しない例があることを指摘。孔穎達は皇侃の科段の説を付会として捨ててはいるが、改変を加えて自説としている例もあり、論理の混乱が生じている場合もあるとする。

 

【要旨】

野間文史氏は、『毛詩正義』『禮記正義』『春秋正義』の各序に見える「據以爲本」の語は、「義疏にそのまま依拠した部分が多いことを意味するのではないか」と述べる(『五經正義の研究』1998,研文出版)が、本論文ではこれが『禮記正義』においてどれほど当てはまっているのか、『禮記子本疏義』と『禮記正義』の比較を通して検討することを第一の主題とする。次にその内容面について、両者の間でどのような意識の差が見られるか、という点について検討することを第二の主題とする。
 『禮記正義』と『禮記子本疏義』を比較すると、①両者がほぼ同文、②『正義』が一部省略、③『正義』において付加、④省略と付加が混在、の4つのパターンに分類される。ここで筆者は各例の検討を通し、両者の性質の違いや、孔疏が皇疏を誤読した箇所を指摘する。結論としては、「皇疏は前後の付會を意識するあまり、煩瑣な解釈に陥りやすく、読み手の思考が分散させられてしま」うため、「孔疏はそれを廃して經文一節ごとに解釈しようと努めている」こと、『禮記正義』が皇説を引用する場合に改変の加えられている事が多く、そこから皇侃の学術を類推するのは難しいことを述べる。
 次に筆者は、両者の分科(科段)・科文に対する意識の差を論じる。両者とも經文を節に区切って理解する点では同じである。皇疏では必ずしも一節ごとに科文を立てず、始めに前後の經文との関係性を示唆するような掲示句が多い。一方、孔疏では一節ごとに「正義曰、此一節…」と科文を提示し、前後の連続性を極力避け、經文の一節一節を単独の文章として捉えている。筆者は、この疏釈が唐人によって新たに書き下ろされたとされる『周禮正義』(前掲野間本)に共通して見えることから、これが孔穎達らの手によって作られたものであると推測する。

 

【議論】

・結論は穏当だろうが、その分本論文の新説に当たる部分がどこなのか分かりにくい。「此一節云々」が唐代の手になるという点か? 
・「孔疏が皇疏を誤読」と言い切れるのかどうか。敢えてそのように読み換えた(故意に改変した)という可能性もある。
・孔疏が改変した例が挙げられているが、そこにある孔疏の意図はどこにあるのだろうか。唐代の思想的背景と絡めることは可能だろうか。
・あくまで『禮記』中の一篇の両著の比較しか出来ない中で、それが他の部分にも演繹して当てはめられるのかどうか、いずれ検討が必要となろう。