達而録

中国学を志す学生達の備忘録。毎週火曜日更新。

慶應義塾大学蔵『論語義疏』古写本の発見について

 最近、衝撃的なニュースが飛び込んできました。かの『論語義疏』の古写本の一部が発見されたというのです。

www.keio.ac.jp

www.asahi.com

 

 以下のように、既にブログで解説している方もいます。

hirodaichutetu.hatenablog.com

 

 一部上の記事と重なるところもあるのですが、本ブログでも、改めて「なぜ研究者が驚いているのか」「どのような価値があるのか」ということをお伝えしたいと思います。

 以下、大きく二点に分けて、解説いたします。

 

1.『論語』の伝来という視点から

 論語という書物は、おそらく皆さん聞いたことがあると思います。春秋時代を生きた孔子の発言や行いを、その弟子たちが整理して作った言行録で、中国のみならず漢字文化圏のあらゆる地域で重視されてきた本です。

 ここで少し考えていただきたいのは、「人間の長い歴史の中で、本はどのようにして伝わってきたのか?」という問題です。『論語』の原型は紀元前5世紀ごろに書かれたとされていますが、ここから現代に至るまで、途方もない時間の間隔があります。

 現代に残る古典のテキストを昔へ昔へと遡っていくと、まず大抵は宋代、特に南宋期(12~13世紀)のテキストに行き当たります。というのも、この頃木版印刷が盛んになり、本の物理的な数が圧倒的に増えたからです。逆に言えば、宋代より前の「本」の現物を確認できるケースは、非常に稀です。

 「印刷」が始まるより前は、当然紙に「手書き」で書き写して複製するしかなかったわけです。これを「写本」「抄本」といいます。なお、「紙」が発明される前は、竹や木に書かれ、これは「竹簡」「木簡」と呼ばれます。紙の発明は後漢(1~2世紀)の頃とされており、魏晋から隋唐の頃にかけて、次第に紙が主流の時代になっていきます。

 手書きとなると、書き写される数がどうしても少なくなってきますから、古い時代の写本となると、それだけで非常に貴重なものとなるわけです。

 『論語』の場合、古い例としては竹簡が一部発見されており、また石に刻んだ石経が一部保存されています。また、隋唐期の写本としては、敦煌より発見された文書群の中に一部が発見されています。基本的にはこれだけです。よって、プレスリリース通りに「隋以前の写本」ということになれば、他に例のない、論語』の最古の写本の発見ということになります。

 つまり、まず『論語』という本そのものの伝来という面から見て、大変貴重であるといえるわけです。

 

2.『論語義疏』の重要性

 今回発見されたのは『論語義疏』という本ですが、この「義疏」とは何ぞや、というのがとても大事なところです。

 『論語』をはじめとする「経書」と呼ばれる古典群は、中国で伝統的に最も重視されてきたものです。経書は、重視されるがゆえに、さまざまな人々によって繰り返し新しく解釈されながら、次の時代へと伝わっていきました。こうして作られた本を「注釈書」と言います。注釈によって、学者が自分の考えを示しているわけです。

 注釈書も、時代が進むにつれて様々な種類が現れてきます。まず、後漢から魏晋の頃にかけて、馬融、鄭玄、何晏といった人々が経書の本文に対して「注」を作りました。

 徐々に注が定着し数を増してくると、今度は経書の本文と注の両方を踏まえて、それらに対して再度解釈を施すようになります。これが「疏」「義疏」で、そのうち梁の皇侃が作ったものが論語義疏』と呼ばれています。

 義疏は南北朝時代に多く作られましたが、唐代にこれらを総合して五経正義』という国定の疏が成立し、続けて『周礼疏』『儀礼疏』、また北宋に入って論語正義』などが作られると、義疏のほとんどが姿を消してしまいました。古い成果を吸収して新しい本が作られると、もとの古い本が滅びてしまう、というのは常見される現象です。特に『論語義疏』の場合は、『論語正義』の成立によって姿を消すことになりました。

 しかし、義疏が滅びてしまうと、現代のわれわれが経書に関する学問(経学)を研究しようとするとき、南北朝時代が全く空白の時代になってしまうのです。よって、たとえわずかでも、この時期の著作のそのものが残っていたならば、研究上たいへん大きな意味を持つことになります。

 

 義疏は南北朝期に大量に作られましたが、現存するものは皇侃の論語義疏』が完本、そして皇侃の弟子の鄭灼が記したとされる礼記子本疏義』が一部、そして隋の劉炫の『孝経述議』が一部、また著者不明の『講周易疏論家義記』が一部、基本的にはたったこれだけです。先に言った事情から、これらは全て日本に伝来し保存されていた義疏です。中国では、ごく一部が敦煌から見つかっているほかは、姿を消してしまったようです。

 「なんだ、『論語義疏』はもともと完本があるんじゃないか」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これは日本で書き写されながら伝わったもので、最古のものでも室町時代の写本ですから、『論語義疏』の成立からは大分時間が経っています。ほか、敦煌から発見された『論語義疏』がありますが、こちらも唐代のものとされており、やはり成立からはやや時間が経っています(この本は異同が多く、別系統のテキストとする説もあります)。

 しかし、今回発見された『論語義疏』は、なんと隋以前に遡り得るということですから、『論語義疏』が書かれた梁代とはもう目と鼻の先です。著者である皇侃の弟子ぐらいの世代が書いていてもよいぐらいの古さです。

 

 つまり、『論語義疏』のごくごく初期の写本が発見されたということになり、その内容はもちろんのこと、むしろ書写の形式面が非常に注目されます。というのも、「義疏がどのように書かれていたか」という問題は、「義疏がどのように作られたか」という問題と密接に絡んでいるからです。これに関する研究は色々あるのですが、有名な史料はこれでしょうか。

『北史』儒林傳、徐遵明

 是後教授門徒,每臨講坐,先持經執疏,然後敷講。學徒至今,浸以成俗。遵明講學於外,二十餘年,海內莫不宗仰。

 「持經執疏」、つまり片手に経文の書かれたテキストを、もう片方で疏を持ちながら講義をしたというわけです。この史料から判断すると、経文と疏は別の本に書かれていたということになりますね。他、実物の存する『孝経述議』が単疏本であることなどから、これまでは、古い形式の義疏は「単疏本」(疏だけが書かれていて、経・注は書かれていない本)であると考えられてきました。

 しかし、今回発見された『論語義疏』の形式は、既に発見されていた義疏の古写本である『礼記子本疏義』と非常によく似ており、「経+疏+注+疏」という形で示されています。これが何を意味するのかについてはまだまだ議論が必要ですが、「古い疏の形式=単疏本」と安易に考えすぎるのもよくない、ということは言えるでしょう。今のところは、「義疏はもともとは単疏の形で執筆されたと考えられるが、利用の便を考え、早いうちから注疏本も存在していた」ぐらいに考えておこうかと思います。

 ただ、半知録さんの指摘通り、今回の写本に「題疏」(『論語』の篇名に対する疏)が見えないのは不可解です。このあたりの謎も、まだまだ検討の余地があるでしょう。

 

 以上、私の拙い説明で伝わったのか分かりませんが、とにかく本物であれば、間違いなく国宝に指定されるべきものです。先に名前を出した『礼記子本疏義』はもちろん国宝です。大変喜ばしい発見に、われわれ研究者は胸を躍らせているところです。

(棋客)