達而録

ある中国古典研究者が忘れたくないことを書くブログ。毎週火曜日更新。

古代中国の天子の冕冠―『礼記』玉藻疏から(1)

 久々に、漢文を読んでいきましょう。今回は、『礼記』玉藻の疏を冒頭から読みます。

 「玉藻」とは、古代中国の天子が着ける冕冠(かんむり)のことで、玉の飾りがついた五色の紐が、前後に十二本ずつ垂れ下がったものです。『礼記』の玉藻篇は、主にこの冠の制度について記した文献です。

※イメージ画像→冕冠 - Google 検索

〔疏〕正義曰、案鄭目錄云、名曰玉藻者、以其記天子服冕之事也。冕之旒以藻紃為之、貫玉為飾、此於別錄屬通論。

 正義に曰く、鄭玄『三礼目錄』を見ると、「玉藻と名付けるのは,天子の衣服・冠冕について記載しているからだ。冕の旒は、カラフルな紐で作り、玉を通して飾りとする。これは劉向『別錄』においては「通論」に属す」とある。

  「疏」とは、唐代に作られた『五経正義』のこと。ここは、『五経正義』が後漢の鄭玄の『三礼目錄』を引き、「玉藻」という篇名の解説をするところです

 『礼記』玉藻の経文は、以下の文から始まっています。鄭玄の注釈と一緒に見ていきましょう。

〔経文〕天子玉、十有二前後邃延龍卷以祭。

 天子の玉藻は、十二の旒(垂れ紐)が、前後へと延(冕の上に被さっている板)から垂れ下がり、(服には)龍の模様が描かれていて、(これを着けて)祀る。

〔鄭注〕祭先王之服也。雜采曰。天子以五采藻為、旒十有二。前後邃延者、言皆出冕前後而垂也。天子齊肩。、冕上覆也。玄表、纁裏。龍卷、畫龍於衣、字或作衮。

 先王を祀る時の服である。彩色の施された紐を「藻」という。天子は、五色の紐によって「旒」を作る。「旒」は十二本ある。「前後邃延」というのは、(旒が)いずれも冕の前後に出て垂れていることをいう。天子なら(紐の高さを)肩と等しくする。「延」は、冕の上を覆うもの。外側は黒色、内側は薄い赤色。「龍卷」とは、龍を衣に描くこと。「巻」字は、異本では「衮」に作る。

 鄭玄は、経文に出てくる分かりにくい言葉(太字)を説明しながら、自分の解釈を述べています。中国史上に名を残す偉大な学者である鄭玄については、noteで連載記事を書きました。→鄭玄で学ぶ中国古典|棋客|note

 さて、今見た「経文」に対する「疏」の説明が以下です。以下のように、文章を短く切って、一つ一つの文章に対する説明を加えていくのが「疏」の基本的な体裁です。

〇天子玉藻者,藻謂雜采之絲繩、以貫於玉、以玉飾藻。故云玉藻也。
 「天子玉藻」とは、「藻」はカラフルな紐のことを指し、これを玉に通し、玉によって「藻」を飾るのである。よって「玉藻」という。

〇十有二旒者、天子前之與後、各有十二旒。
 「十有二旒」とは、天子は前と後とに、それぞれ十二の旒がある。

〇前後邃延者、言十二旒在前後垂而深邃、以延覆冕上、故云前後邃延。
 「前後邃延」とは、十二の旒が前後に長く垂れ、延によって冕の上を覆うことで、よって「前後邃延」という。

〇龍卷以祭者、卷謂卷曲、畫此龍形卷曲於衣、以祭宗廟。
 「龍卷以祭」とは、「卷」は湾曲していることをいい、この龍の形の湾曲したさまを衣に描き、宗廟を祀る。

 「A者、~~~、故云A也」というのは何だか回りくどい表現にも見えますが、疏ではよくある表現です。最初の「A者」は記号の役割を果たしていて、以下に論じる部分が経文のどこに対応するのか表示しているだけ、と考えると読みやすいです。その意味では、「~~とは」「~~については」などと訳すのも少し変かもしれません。

 以下が、鄭注に対する「疏」です。

〇正義曰,知「祭先王之服」者,以司服云「享先王則衮冕」故也。

 (鄭玄が)「祭先王之服(先王を祀るときの服)」と分かったのは、『周禮』春官・司服に「享先王則衮冕」というからである。

 云「天子齊肩」者、以天子之旒十有二就、每一就貫以玉。就間相去一寸、則旒長尺二寸、故垂而齊肩也。言天子齊肩、則諸侯以下各有差降、則九玉者九寸、七玉者七寸、以下皆依旒數、垂而長短為差。

 鄭注に「天子齊肩」というのは、天子の旒は十二あり、一つ一つに玉を通す。玉は一寸ずつ間を空けるから、旒の長さは一尺二寸となり、よって垂れて肩と同じ高さになる。「天子齊肩」と言うのは、諸侯以下はそれぞれ等級によって数を減らし、九玉の場合は九寸、七玉の場合は七寸となり、以下はいずれも旒の数に従うから、垂れ紐の長短にも差が生じるのである。

 以上は、鄭注のうち「祭先王之服」と「天子齊肩」を説明する部分。鄭玄の「天子齊肩」という言い方から、「それなら天子以外は違いがあるのだろう」と考えるのが、経学らしい考え方です。ここでは、天子とそれ以外では、紐に飾る玉の数が異なり、すると紐の長さも変わるから、肩まで届くのは天子だけだ、と説明しています。

 『周礼』夏官・弁師には、天子は五色の紐・十二の玉を用い、諸侯は三色の紐・九つの玉を用いることが書いてあります。また、「玉は一寸ずつ間を空ける」云々は、この弁師の鄭注に拠っています。

 

 以下、その続きの説明。紐の「長さ」は上で説明したので、次は紐の「色」の身分のよる差を説明します。

 旒垂五采玉、依飾射侯之次、從上而下、初以朱、次白、次蒼、次黃、次玄、五采玉既質徧、周而復始。其三采者、先朱、次白、次蒼、二色者、先朱、後綠。皇氏沈氏並為此說、今依用焉。後至漢明帝時用曹褒之說、皆用白旒珠、與古異也。

 旒は五色の玉を垂らし、射侯を飾るときの順序に沿って、上から下まで,初めは朱、次は白、次は蒼、次は黃、次は玄、五色の玉が全て備われば、一周してまた始まる。三色の場合は、初めに朱、次に白、次に蒼。二色の場合は、初めに朱、次に緑。皇氏・沈氏はともにこの説を立てており、今は従ってこれを用いる。後に漢の明帝の時に曹褒の説を用い、いずれも白の旒珠を用いたが、これは古の制度とは異なっている。

 五色というのが、何色で、どのような順序なのか、というのが問題にされています。「疏」は、これは射侯(射撃の的)の色分けの順序と同じであるとし、「朱・白・蒼・黃・玄(黒)」の順番であるとします。そして三色・二色の場合も説明しています。 

 射侯の色分けは、『周礼』夏官・射人の鄭注に「畫五正之侯、中朱、次白、次蒼、次黃、玄居外。三正、損玄黃。二正、去白蒼而畫以朱綠」とあることによります。ただ、これがなぜ天子の玉藻の五色と同じになると想定できるのか、上の文章だけではよく分かりません。

 

 この説は、「皇氏」「沈氏」、つまり皇侃と沈重(南朝の礼学研究者・義疏家)の説に由来するようです。そして、後漢の明帝の時に、飾りとして白色の玉だけを用いることがあったものの、これは古制に反したものであることを指摘しています。

 明帝の時の議論とは、具体的には以下の時のことを指すのでしょう。

『續漢志』輿服志下・冕冠
 冕冠,垂旒,前後邃延,玉藻。孝明皇帝永平二年,初詔有司采『周官』『禮記』『尚書』皐陶篇,乘輿服從歐陽氏說,公卿以下從大小夏侯氏說。冕皆廣七寸,長尺二寸,前圓後方,朱綠裏,玄上,前垂四寸,後垂三寸,係白玉珠為十二旒,以其綬采色為組纓。三公諸侯七旒,青玉為珠;卿大夫五旒,黑玉為珠。皆有前無後,各以其綬采色為組纓,旁垂黈纊。郊天地,宗祀,明堂,則冠之。衣裳玉佩備章采,乘輿刺繡,公侯九卿以下皆織成,陳留襄邑獻之云。

 「疏」には、白色の玉だけを用いることを提案したのは、曹襃であるという指摘がありました。上の資料にはその名前は出てきませんが、以下の資料から確かめられます。

『初學記』卷二十六器物部
 曹襃云、天子弁以白玉飾。

  冠をどのような設計にするべき、という議論はたびたび行われていたようで、各代の歴史書のなかに色々と議論が出てきます。これらを整理してみるのも面白そうです。一例は、『宋會要輯稿』に載っているものです。

『宋會要輯稿』輿服四・祭服

 高宗紹興十六年四月四日,上謂輔臣曰:「比降下祭服,更令禮官考古,便可依式制造,庶將來奉祀不闕。」…

 一、六冕之旒數。若大裘冕即無旒。若袞冕,天子十有二旒,前後邃延;上公即九旒。每旒五采就為之,每一寸安一玉,玉皆五色:朱、白、蒼、黃、玄。諸侯即三采。夏商朱緑,皆周而復始。十二旒,旒各一尺二寸,用玉二百八十八。若上公九旒,用玉百六十二。今覩旒、玉純用一色,其數不與昔同,是二失也。

 この時も、もともとは曹襃説に基づき、玉は白色だけを用いていたところ、ここで五色のものを用いるように提案しているようです。

 

 さて、今回の内容はただ読み進めただけですが、この次の部分に少し面白いところが出てきます。来週更新します。

 (棋客)